
今川氏の詰め城で、 右上に見えるのが今川館(その跡地は、のちに駿府城となる)。
規模は大きいが、比較的単純な造りのオーソドックスな山城。
今川義元が討たれたのち、今川氏真が武田氏の進行に備えて兵を配している設定で描いた。
今川氏の詰め城で、 右上に見えるのが今川館(その跡地は、のちに駿府城となる)。
規模は大きいが、比較的単純な造りのオーソドックスな山城。
今川義元が討たれたのち、今川氏真が武田氏の進行に備えて兵を配している設定で描いた。
戦国時代、入江氏の居城だったが織田信長によって落城。信長の支配下となってから、高山右近が配されて城を織豊城郭に改修したと推定されている。本丸の発掘調査では、当時の石垣のほか、障子堀も見つかった。
高山右近はキリシタン大名として知られるが、城内には教会と墓地があり、家臣の葬式では右近も棺を担いで人々を驚かせたと伝わっている。
1570年の姉川の戦い以降、浅井長政に対する攻勢を強めた織田信長は、浅井方の支城を落として本拠の小谷城に迫り、虎御前山(とらごぜまや)に大規模な付城を築いた。イラストは虎御前山上空から、遠景に小谷城を望むアングルで描いている。
小谷城も、朝倉氏が西側尾根の大嶽などに支城を築いて支援し、織田方と攻防を繰り返したが、1973年、信長は大規模な包囲体制を完成させ、小谷城を落した。
古くから寺院が開かれた信貴山に造られた山城で、松永久秀が本拠とした。
山頂部から延びる尾根上に郭を並べた放射状の縄張り。
229の落城場面と同じ角度から、平常時の姿を想像復元して描いた。
安楽平城(あらひらじょう)は荒平城とも表記される。はじめは大内氏の城として築かれたとされるが、その後大友宗麟の配下の城となって、龍造寺氏の大軍に攻められて落城したとされる。
イラストは、その籠城戦を想定しており、その季節に合わせて冬景色に描いた。
尾根上に曲輪を繋げ、要所に堀切を設けた戦国の山城らしい縄張りだが、各所に石垣が設けられており、織豊城郭とは異なる在地系の石垣と評価されている。
沖縄では15世紀に中山が琉球統一をはたすが、その戦いで活躍した護座丸が築いたグスク。世界遺産にも含まれている。
自然の露岩の上に高石垣を築き、アーチ門や火矢用の銃眼を設けるなど、構造的な完成度が高い。
復元の想定は1458年。この年、護座丸は対岸(左上)の勝連グスクの阿麻和利によって謀反の疑いをかけられ、中山王の軍に攻められたが、抵抗せずに死を選んだとされている。
古川盆地西端の戦国城郭。特に中心曲輪の北側では大規模な堀切が連続し、畝状竪堀も見られる。これらは三木氏による改修と推定されている。上方(東側)は小島城。描いたのは姉小路氏が中心とした地域で、2城のほぼ中央の段丘上には、姉小路氏の居館とされる岡前館跡があるが、三木氏時代には廃絶していたと推定される。
戦国時代中期、姉小路氏に代わって三木氏(名族、姉小路氏の名を継いだため、三木氏も姉小路氏と呼ばれた)が飛騨を支配した。その時代の飛騨の山城は畝状竪堀の構築が顕著で、小鷹利城には現在も深い堀跡が残されている。西側からの金森長近による侵攻を想定して築かれたと考えられる。
飛騨の古川盆地西端には、戦国の山城が複数築かれており、手前の小鷹利城、中央の向小島城、左の野口城が知られる。この地域は姉小路氏の支配地域で、小鷹利城と向小島城は、姉小路氏の一族、向氏の本拠とされる。
小鷹利城の主郭では、この時代と推定される大型の礎石建物跡が発見され、関係者を驚かせた。
三木氏を滅ぼして飛騨一帯を配下に置いた金森長近が、飛騨南部の拠点として築いた織豊城郭。大地の先端部の城で、ここにあった諏訪神社を移転させて築城したが、江戸前期に廃城となり、その後再び諏訪神社が建てられている。
搦手口では当時の石垣が確認されているが、現在見られる石垣の多くは廃城後のものと考えられる。絵図などの資料も少なく、イラストは推測の多い復元イメージとなった。
段丘の先端部を利用した城で、戦国時代、飛騨のほぼ全域に勢力を拡大した三木氏の居城。広範囲に発掘調査が行われ、空堀や、庭園と思われる石敷きなどが検出されている。ただ中心建物の跡は見つかっておらず、復元イラストでは、未調査区域を中心に主殿などを描いた。
大規模な戦国の山城として知られる。関ヶ原合戦後、堀尾吉晴が入城して、要所を石垣と瓦葺建物による織豊城郭に改修した。この際、東側の尾根上の曲輪群は利用されなかったと推測されている。堀尾吉晴が1611年に松江城を築いて移った後、廃城となったが、城下町はその後も存続した。しかし飯梨川の氾濫に悩まされたため、町全体で川の対岸に移住し、川の流路を南に移動させたため、城下町遺構の多くが川底となった。
戦国時代には尼子氏の本拠であり、戦国の山城として屈指の規模を誇る。尼子氏は毛利氏との攻防で次第に圧迫され、月山富田城に籠城するが、1566年、毛利氏の1年以上にわたる兵糧攻めによって開城した。
山の複雑な尾根を中心に多数の曲輪が広がるが、中心部は、江戸初期の堀尾氏時代に改修されており、推定の多い復元となっている。
豊川に面した段丘上に築城された城。戦国時代から今川氏、徳川氏が三河の拠点城郭として、家臣を配備した。豊臣政権下では池田輝政が入城、大規模に改修したとされる。江戸時代にも譜代大名が頻繁に入れ替わって城主となった。城下町は東海道の重要な宿場でもあり、吉田大橋も名所として知られていた。
イラストの資料には浮世絵等の絵画資料を多数用いており、江戸後期の状況を復元している。
飯盛山城とも言う。最初の築城は南北朝時代とされるが、1560頃に、河内の戦国大名、三好長慶が大規模に築城し、芥川城(294番)からここに居城を移した。石垣(高さ2メートル前後ながら、総石垣に近い規模)や、塼列建物(土蔵造り)もあり、織豊城郭以前の先進的な城といえる。周辺平野部の支城や寺内町には教会もあったとされる。長慶は当時のイエズス会に「天下人」と認識されていた。