
将軍山城と呼ばれる城を中心とした山城群で、比叡山経由で京都に入る白鳥越を取り込んでいる。細川氏や六角氏も利用したが、イラストは永禄元年(1558)、将軍足利義輝が三好長慶に支配されていた京都を奪還しようと城に入った状況を想定。
義輝の「御殿」も建てられたと記録される。
遠景には洛東~白河の風景を推定復元した。
将軍山城と呼ばれる城を中心とした山城群で、比叡山経由で京都に入る白鳥越を取り込んでいる。細川氏や六角氏も利用したが、イラストは永禄元年(1558)、将軍足利義輝が三好長慶に支配されていた京都を奪還しようと城に入った状況を想定。
義輝の「御殿」も建てられたと記録される。
遠景には洛東~白河の風景を推定復元した。
関ヶ原の南西部にある山城。
戦国期から存在したが、関ヶ原合戦で西軍の陣として使われたことで知られる。
もともと総大将の毛利氏が入る予定だったが、最終的に小早川氏が陣を構えた。
主な曲輪は土塁で囲まれており、左の煙硝蔵曲輪には、半地下式の櫓があったと推定されている。
三河と遠江の国境近くに築かれた山城で、今川義元の傘下になった時期もあったが、後に徳川家康の下に入る。
尾根筋に曲輪を築き、前後を掘り切りで遮断する典型的な山城。山腹には山岳寺院「普門寺」の堂宇が点在し、城のすぐ下には、寺の最初の本堂とされる「元々堂」があった。
戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤氏の本拠だったが、後に織田信長が攻略し、信長の居城となった。その後も池田輝政や織田秀信などの居城となった。ここでは山上の曲輪群を、織田信長時代を想定して復元。
一ノ門や裏門、天守など、最新の調査成果を反映させている。
金華山と呼ばれる岐阜城の山は、チャートの岩盤が露出する岩山で、天守近くには磐座信仰の権現社もあったと想像されている。
等妙寺旧境内には、現在も石垣が残されて、史跡を代表する遺構となっており、その構築風景を想像復元した。
石垣は平らに割れる節理の石を用いているが、城石垣も織豊期以前のものは、平らな石を積んだものが全国各地で散見される。
2067で書院を描いた石垣上の平場には、工房の跡も発掘されており、伽藍の建設中に釘などの鉄製品を作っていたと推定されている。
等妙寺は、愛媛県南予の鬼北町にある寺で、中世には背後の山中に堂宇が点在する山岳寺院だった。その中心部を山の上から見下ろした。
本堂の奥に見える一角は書院造の屋敷が想定されている。権現社、観音堂、滝や池、水閼伽取りの小屋など様々な建物や施設が点在し、僧侶たちが修行生活を送っていた。
信濃の名族、小笠原氏が戦国時代に本拠とした。当時は手前の大城と奥の小城の間の谷に平時の館と城下集落があった。
信濃はその後武田氏の配下となるが、本能寺の変の後に起きた天正壬午の乱に乗じて、小笠原氏は信濃を奪還。深志(松本)城を本城としたが、林城も整備したと思われ、その状況を想定復元した。
尾根筋に延々と続く削平地が特徴で、大城、小城ともに主郭は石垣造り。
室町時代から戦国期にかけての山岳寺院で、楼門造りの山門や、三重塔、山王権現社などが立ち並んだと伝えられる。しかし戦国時代の戦火と天正地震によって堂宇の大半が失われ、江戸時代に廃寺となった。
鎌倉・室町時代には、各地に天台宗の山岳寺院が開かれた。山の中腹に削平地が点在するものが多いが、大威徳寺は一か所にまとまっているのが特徴。
福岡県の東部、豊前の山城。現在は埋め立て地に囲まれ、北九州空港に至る工業地帯の一角だが、かつては海と湿地に囲まれた要害の山城だった。
毛利元就が九州攻めの拠点としたほか、豊臣秀吉の九州攻めでも陣とされ、九州平定後は黒田氏や細川氏の支城となった。
戦国後期の畝状竪堀、尾根上に土塁を巡らせた惣構え、石垣と瓦葺き建物など、それぞれの時期の築城がミックスされている。
尼崎城を築いた戸田氏は、岐阜県の大垣城も築いており、4層の白亜の天守は、大垣城の天守と類似している。
しかし、規模は尼崎城のほうが一回り大きい。
柱の位置が分かる各階平面図が残されており、外観も複数の絵図に描かれており、概ね正確に復元できる。柱組は推定で描いている。
大坂の陣後の元和年間に戸田氏が築いた城で、徳川幕府は姫路城、明石城などと共に、西国の外様大名に対する抑えと位置付けていた。
江戸時代中期~後期の城と城下を東側から見ている。
尼崎城は整然とした近世城郭で、城下町の武家屋敷や町屋にも瓦葺きが浸透し、江戸時代でも特に都会的な城と城下だったと思われる。左上の山は六甲山で、尼崎との間に流れる武庫川は、現在と異なる流路もあった。
中央の羽衣石城(うえしじょう)は、国人領主南條氏の城。
織田信長配下の羽柴秀吉が、吉川氏が籠る鳥取城を包囲するのと相前後して、南條氏は秀吉方に付いた。
城の周辺には左下の「太閤ヶ平」など、秀吉軍の築城と思われる大規模な陣城跡が残されている。
鳥取城は秀吉方が落とすが、その後秀吉軍が撤退した隙に、羽衣石城は吉川方が攻め落とした。
平安時代後期から三浦半島一帯を領した三浦氏の本拠。源平合戦の初期、三浦氏は源頼朝を支援して挙兵するが、頼朝は石橋山合戦で敗れ、房総に逃れる。三浦氏は衣笠城で平家方の畠山氏を迎え撃つが、翌日には城を出てやはり房総へ逃れた。
この時期はまだ城の構造も城攻め法も未発達で、野戦に近い攻防の様子を推定して表現した。
恵那市街を見下ろす丘に多くの礎石が残された寺院の跡。文献資料は残されていない謎の遺跡だが、全面的な発掘調査が行われた。小振りながら、塔、金堂、講堂が並び立つ。当初は回廊が設けられたが、回廊を廃して築地塀が築かれ、隣に付属施設(詳細は不明)も設けられたと推定されている。イラストはその状態を描いた。
築城は鎌倉時代と伝えられる山城で、戦国時代には、武田氏、織田氏による争奪を始め、何度も戦場となった。
江戸時代には松平氏、丹羽氏が城主となり、近世城郭に整備。代表的な近世山城として名前が上がることも多い。イラストは、絵図資料が残る江戸中期から後期を描いているが、山中には多数の平場があり、戦国期や江戸前期に築かれたと思われる。江戸中期以降、それらは木に覆われていたようだが、イラストでは見えるように描いた。