等妙寺は、愛媛県南予の鬼北町にある寺で、中世には背後の山中に堂宇が点在する山岳寺院だった。その中心部を山の上から見下ろした。
本堂の奥に見える一角は書院造の屋敷が想定されている。権現社、観音堂、滝や池、水閼伽取りの小屋など様々な建物や施設が点在し、僧侶たちが修行生活を送っていた。
投稿者: さちたろう
872 林城
信濃の名族、小笠原氏が戦国時代に本拠とした。当時は手前の大城と奥の小城の間の谷に平時の館と城下集落があった。
信濃はその後武田氏の配下となるが、本能寺の変の後に起きた天正壬午の乱に乗じて、小笠原氏は信濃を奪還。深志(松本)城を本城としたが、林城も整備したと思われ、その状況を想定復元した。
尾根筋に延々と続く削平地が特徴で、大城、小城ともに主郭は石垣造り。
2069 大威徳寺
室町時代から戦国期にかけての山岳寺院で、楼門造りの山門や、三重塔、山王権現社などが立ち並んだと伝えられる。しかし戦国時代の戦火と天正地震によって堂宇の大半が失われ、江戸時代に廃寺となった。
鎌倉・室町時代には、各地に天台宗の山岳寺院が開かれた。山の中腹に削平地が点在するものが多いが、大威徳寺は一か所にまとまっているのが特徴。
871 松山城
福岡県の東部、豊前の山城。現在は埋め立て地に囲まれ、北九州空港に至る工業地帯の一角だが、かつては海と湿地に囲まれた要害の山城だった。
毛利元就が九州攻めの拠点としたほか、豊臣秀吉の九州攻めでも陣とされ、九州平定後は黒田氏や細川氏の支城となった。
戦国後期の畝状竪堀、尾根上に土塁を巡らせた惣構え、石垣と瓦葺き建物など、それぞれの時期の築城がミックスされている。
2063 尼崎城天守
尼崎城を築いた戸田氏は、岐阜県の大垣城も築いており、4層の白亜の天守は、大垣城の天守と類似している。
しかし、規模は尼崎城のほうが一回り大きい。
柱の位置が分かる各階平面図が残されており、外観も複数の絵図に描かれており、概ね正確に復元できる。柱組は推定で描いている。
2064 尼崎城
大坂の陣後の元和年間に戸田氏が築いた城で、徳川幕府は姫路城、明石城などと共に、西国の外様大名に対する抑えと位置付けていた。
江戸時代中期~後期の城と城下を東側から見ている。
尼崎城は整然とした近世城郭で、城下町の武家屋敷や町屋にも瓦葺きが浸透し、江戸時代でも特に都会的な城と城下だったと思われる。左上の山は六甲山で、尼崎との間に流れる武庫川は、現在と異なる流路もあった。
2084 羽衣石城
中央の羽衣石城(うえしじょう)は、国人領主南條氏の城。
織田信長配下の羽柴秀吉が、吉川氏が籠る鳥取城を包囲するのと相前後して、南條氏は秀吉方に付いた。
城の周辺には左下の「太閤ヶ平」など、秀吉軍の築城と思われる大規模な陣城跡が残されている。
鳥取城は秀吉方が落とすが、その後秀吉軍が撤退した隙に、羽衣石城は吉川方が攻め落とした。
866 衣笠城
平安時代後期から三浦半島一帯を領した三浦氏の本拠。源平合戦の初期、三浦氏は源頼朝を支援して挙兵するが、頼朝は石橋山合戦で敗れ、房総に逃れる。三浦氏は衣笠城で平家方の畠山氏を迎え撃つが、翌日には城を出てやはり房総へ逃れた。
この時期はまだ城の構造も城攻め法も未発達で、野戦に近い攻防の様子を推定して表現した。
2066 正家廃寺
恵那市街を見下ろす丘に多くの礎石が残された寺院の跡。文献資料は残されていない謎の遺跡だが、全面的な発掘調査が行われた。小振りながら、塔、金堂、講堂が並び立つ。当初は回廊が設けられたが、回廊を廃して築地塀が築かれ、隣に付属施設(詳細は不明)も設けられたと推定されている。イラストはその状態を描いた。
2065 岩村城
築城は鎌倉時代と伝えられる山城で、戦国時代には、武田氏、織田氏による争奪を始め、何度も戦場となった。
江戸時代には松平氏、丹羽氏が城主となり、近世城郭に整備。代表的な近世山城として名前が上がることも多い。イラストは、絵図資料が残る江戸中期から後期を描いているが、山中には多数の平場があり、戦国期や江戸前期に築かれたと思われる。江戸中期以降、それらは木に覆われていたようだが、イラストでは見えるように描いた。
2062 向小島城
飛騨市西部の小鷹利は、姉小路氏の拠点地域だったが、その後三木氏が奪い取った。向小島城はこの地域を見下ろし、南と西に大規模な堀切と畝状竪堀が築かれている。三木氏が織田信長方の侵攻に備えて築いたものと推定される。左奥の寺院も当時は城郭化していた。
その後、飛騨は信長方の金森氏の支配下になり、これらの城は廃城になったと考えられる。
862 賤機山城
今川氏の詰め城で、 右上に見えるのが今川館(その跡地は、のちに駿府城となる)。
規模は大きいが、比較的単純な造りのオーソドックスな山城。
今川義元が討たれたのち、今川氏真が武田氏の進行に備えて兵を配している設定で描いた。
865 高槻城(高山右近期)
戦国時代、入江氏の居城だったが織田信長によって落城。信長の支配下となってから、高山右近が配されて城を織豊城郭に改修したと推定されている。本丸の発掘調査では、当時の石垣のほか、障子堀も見つかった。
高山右近はキリシタン大名として知られるが、城内には教会と墓地があり、家臣の葬式では右近も棺を担いで人々を驚かせたと伝わっている。
864 虎御前山城
1570年の姉川の戦い以降、浅井長政に対する攻勢を強めた織田信長は、浅井方の支城を落として本拠の小谷城に迫り、虎御前山(とらごぜまや)に大規模な付城を築いた。イラストは虎御前山上空から、遠景に小谷城を望むアングルで描いている。
小谷城も、朝倉氏が西側尾根の大嶽などに支城を築いて支援し、織田方と攻防を繰り返したが、1973年、信長は大規模な包囲体制を完成させ、小谷城を落した。
863 信貴山城
古くから寺院が開かれた信貴山に造られた山城で、松永久秀が本拠とした。
山頂部から延びる尾根上に郭を並べた放射状の縄張り。
229の落城場面と同じ角度から、平常時の姿を想像復元して描いた。