ペリーの来航以降、外国船の脅威を感じた幕府は、江戸の海上で敵船を迎えうつための海上台場を5つ設置した。
計画された海上台場は11基で、その半分しか完成しなかったが、御殿山下などの海岸台場と合わせて、江戸湾の防衛網を形成した。
現在の「お台場」もこの周辺を埋め立てて造られた地域。
投稿者: さちたろう
374 品川沖台場 第一台場
江戸湾海上の台場のうち、最も西に位置したもの。直接波を受ける土台は緻密な石垣造りで、上部は砲撃のダメージを受けにくい土塁造り。
大砲での攻防を重視した構造は、当時の先端的な築城だった。
296 八王子城(裏)
北条氏が、豊臣秀吉の進行を防ぐために整備した大規模な山城。
豊臣方の大軍によって一日で落城した。
245でも描いたが、それとは異なる西股氏の復原案をイラスト化。
当時は、現在観察される以上に石垣が多用されたと推定。
搦手とされる西側から見ているが、豊臣軍は西から攻めてきたので、西側に防御の重点が置かれていたとも考えられる。
245 八王子城
八王子城は、東京で最も大規模な山城で、谷の居館群と山上の曲輪、それらを囲む尾根上の出城群からなる。
現在は、居館跡に大規模な石垣が復元されている。
イラストは居館がある西側から見ており、通常の城ではこちらが表側。
推定復元が多い 296の案に対して、現状の遺構を踏襲した復元案。
239 深大寺城
現在の神代植物園に隣接した戦国城郭で、堀の一部が残る。
関東によく見られる、舌状台地の先端の城。
北条氏の関東支配が進んだ頃には、使われなくなったと思われる。
222 辛垣城
青梅(二俣尾駅の北の山)の城。
三田氏が治めた城で、東京には珍しい本格山城のひとつ。
743 家康入城時の江戸城
戦国時代の江戸城は、太田道灌が築城し、のちに北条氏の配下となっていた。
北条氏滅亡後に徳川家康が入場した時、御殿はかなり痛んだ状態だったが、家康は応急修理をして使ったと記録されている。
840 江戸城
徳川家康時代の江戸城を、「慶長13年江戸図」と「江戸始図」から推定。
江戸始図で「5連続枡形」と言われた部分は、その後の寛永年間の江戸城では狭い通路として残されており、戦国時代の江戸城からの登城道が引き継がれたものと想定している。
162 江戸城 寛永期天守と北桔橋門
三代将軍家光時代の寛永期天守を北から見る。
江戸城では、家康、秀忠、家光と将軍が代替わりするたびに、新しい天守が建造された。
寛永期天守も当時日本一大きい天守だったが、江戸の町を火の海にしたという明暦の大火で、御殿などと共に焼失。
その後天守は再建されなかった。
161 江戸城主要部
北西から見た寛永期江戸城の主要部。
手前左が、現在武道館などがある北の丸。
千鳥ヶ淵を挟んで手前右が西の丸。
寛永期まではここに御三家の屋敷があった。
160 江戸城 寛永期本丸御殿
江戸城で儀式の中心となった表御殿を、屋根を取り除いて描いている。
左端の長い廊下が、忠臣蔵で有名な松の廊下。
左上の塀の上には、広大な大奥が広がっていた。
158 江戸城 寛永期天守
西から見た寛永期天守。
江戸城には、家康時代にも秀忠時代にもそれぞれ天守があったとされるが、確実な資料が残り、ほぼ正確に復元できるのは寛永期天守だけ。
155 江戸城 寛永期天守断面
江戸城寛永期天守は、柱を描いた立面図もあり、内部構造も概ね分かっている。
外観と同じ5階建て(地下を含めて6階)のシンプルな構造だが、各階の天井が非常に高い。
当時、世界最大の木造建築だったと思われる。
154 江戸城本丸と二の丸
東から見た寛永期の本丸と二の丸。
儀式や政治の場であった本丸御殿に対し、二の丸御殿は庭も広く風雅な造りとなっていた。
153 江戸城鳥瞰
南から見た江戸の全体像。
築城工事は家康時代から断続的に行われ、三代将軍家光時代(寛永期)に完成した。
町全体を囲む惣構えは日本の城の中で最も大きい。