262 春日山城

戦国時代 考証 水澤幸一 2001年 歴史群像シリーズ『疾風上杉謙信』

上杉謙信の本城で、戦国時代の山城の中でも特に有名。
増設を繰り返して山全体が城となった大城郭。

250 御館の乱

戦国時代 考証 花ヶ前盛明 2008年『新・歴史群像シリーズ 17 直江兼続 』

御館の乱(おたてのらん)は上杉謙信没後、その跡目争いから起こった戦い。
直江兼続が支えた上杉景勝は、画面右上の春日山城を抑え、左下の御館に拠った上杉景虎に勝利して、上杉家の当主となった。

240 栃尾城

戦国時代 考証 佐伯哲也 2009年 『歴史群像 95 6月号』

新潟県の代表的な山城の一つ。
上杉謙信はこの城で初陣を飾り、幼少期を過ごした。御館の乱でも、戦場となって落城している。

182 新発田城

江戸時代 考証 香川元太郎 1994年  学研『名城の天総覧』

新発田城の御三階櫓(天守)は、L字型の平面を持つ独特の建物。
金沢城に似た海鼠壁も使われていた。
現在は、城址に復元されている。

353 多賀城鳥瞰

奈良時代 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社『日本の城』

奈良・平安時代、朝廷は東北地方に権力を伸ばしていったが、その過程で設けた城を「城柵」と呼ぶ。
多賀城は、朝廷の東北進出の初期に、拠点の城柵となっていた。
広く四角い外壁をめぐらせ中央に政庁を置く、城柵の典型的な形。

346 多賀城 城壁と櫓

奈良時代 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社『日本の城』

城柵の城壁は、乾いた地面には版築の築地、湿地では材木塀を使う例が多い。
築地には瓦屋根をかけ、所によって舞台状の櫓もあったと推定されている。

145 仙台城 本丸御殿

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社『日本の城』

仙台城の御殿は、全国の城の中でも、江戸城や名古屋城に次ぐ豪華なもので、上々段の間もあり、将軍や天皇を迎える格式を備えていた。
手前は断崖にせり出すように建てられた「掛屋御殿」。
平面図のほか、要所は立面図も残されており、精度の高い復元ができる。

144 仙台城大手門

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社『日本の城』

仙台城二の丸の入口となる門で、極めて規模の大きい二階門。
江戸時代の城郭建築としては古風な真壁造り(柱が見える)で、肥前名護屋城の大手門を移築したとの伝承がある。
第二次大戦の空襲で焼失。

143 仙台城

江戸時代 考証 香川元太郎 2004年 PHP研究所 『名城を歩く』21

仙台城は東北の雄藩・伊達氏の城で、「青葉城」の別名でも知られる。
戦国的な断崖上の本丸に、近世城郭の櫓が立ち並ぶ。
天守台もあるが、天守は立てられなかった。
二の丸が本丸から遠く離れるなど、それぞれの曲輪の独立性が強いところも個性的。

753 酒田港

江戸時代 考証 本間勝善 2007年 朝日ビジュアルシリーズ『週刊藤沢周平の世界 11』

酒田は最上川河口の港。
江戸時代には北前船の中心基地で、東北一の港として栄えた。
イラストは帆を下ろして停泊する北前船を中心に描き、奥に酒田の街を見せた。

312 長谷堂城の戦い

戦国〜江戸時代初期 考証 誉田慶信 2001年 歴史群像シリーズ特別編集『図説戦国合戦集』

長谷堂城は最上氏の重要な支城。関ヶ原の戦いに連動した慶長出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻を受けた。
しかし城は持ちこたえ、関ヶ原での西軍敗戦の報を受けた上杉軍は撤退した。

259 長谷堂城

戦国〜江戸時代初期 考証 誉田慶信 2009年 『歴史群像 97 10月号』

山形城の郊外に位置する最上氏の支城で、戦国時代には伊達氏との攻防の焦点になった。
もともと山城だが、慶長期には惣構えの堀を持つ平山城的な縄張りとなる。
慶長出羽合戦では、総構えの力で上杉軍を退けたと推定されている。

243 舘山城

戦国時代 考証 三島正之 2014年 『歴史群像 124 4月号』

伊達氏が築城し、後世の米沢城が築城される以前、ここが伊達氏の本拠だったとの推定による復元。
米沢市の西側の郊外、鬼面川と大樽川の合流地に城跡がある。
若き伊達正宗も居城とし、ここが会津侵攻などの拠点になったと思われる。

241 畑谷城

戦国時代 考証 三島正之 2009年 『歴史群像 96 8月号』

山形城を本拠とした最上氏が、上杉氏、伊達氏に対する最前基地として整備。
関ヶ原合戦直前に起きた慶長出羽合戦で、上杉軍(直江兼続)の攻撃を受け、激戦の末、落城した。

142 米沢城下

江戸時代 考証 小野 榮 2007年 朝日ビジュアルシリーズ『週刊藤沢周平の世界 24』

上杉氏の城と城下町。
上杉景勝は会津で120万石を領する大大名だったが、関ヶ原合戦で西軍側についた責を問われ、米沢30万石に改易された。
小さめの城に対して城下町が大きく広がるのは、石高を減らされても家臣を解雇せずに抱え続けたためという。