秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)では、戦い慣れた日本軍が朝鮮の都市を次々と制圧したが、李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の活躍が日本側の勢いを阻んだ。
イラストは閑山島(ハンサンド)の戦いを想定したもので、地形を熟知した李舜臣の戦術と、新兵器「亀甲船」によって、脇坂安治の水軍が大打撃をこうむった。
カテゴリー: 倭城
782 長門浦城•松真浦城
韓国南部、巨済島(コゼド)の倭城。
文禄・慶長の役の際、日本軍は現地の拠点として多くの城を築いた。
これを「倭城」と呼び、近世城郭の発達史の中で重要な存在。
巨済島の倭城群は、李舜臣率いる朝鮮水軍に圧倒されていた日本水軍を守るため、湾の入り口を抑えていた。
653 碧蹄館の戦い
文禄の役で平壌まで進行した日本軍は、明・朝鮮軍の攻勢を受けて漢城まで後退する。
進行する明・朝鮮軍と、それを迎え討つ日本軍は漢城北西の谷、碧蹄館(へきていかん ピョクチェグァン)で激突、日本側が勝利した。
826 泗川倭城
泗川(しせん サチョン)倭城の中心部。
秀吉が死去した後の撤退戦で、この城に籠る島津軍が、明の大軍を撃退した。
朝鮮側の絵図などを資料にした堀口氏の復元案。
191 泗川倭城
泗川倭城は、朝鮮半島南岸のほぼ中央に築かれていた。
826でも中心部を描いたが、このイラストは高田氏による復元案で、国内の近世城郭に近いイメージ。
190 順天倭城
順天(じゅんてん スンチョン)倭城は、西の最前線の倭城。
小西行長らの武将が守っていたが、明・朝鮮連合軍の攻撃を受け、激しい戦いの末、これを撃退。
秀吉の死によって慶長の役は終結に向かい、各武将は大きな犠牲を払いながら朝鮮半島から撤退した。