
戦国時代の忍城は、成田氏の城で湿地に囲まれた堅城として知られていた。羽柴秀吉による小田原攻めの際に、石田三成が水攻めにした様子を想像を交えて描いている。
三成は、さきたま古墳群の一画、丸墓山古墳に本陣を置き、長大な堤防を築いて利根川の水を流し込んで水攻めにした。
戦国時代の忍城は、成田氏の城で湿地に囲まれた堅城として知られていた。羽柴秀吉による小田原攻めの際に、石田三成が水攻めにした様子を想像を交えて描いている。
三成は、さきたま古墳群の一画、丸墓山古墳に本陣を置き、長大な堤防を築いて利根川の水を流し込んで水攻めにした。
忍城の水攻めの際、石田三成が本陣の丸墓山から忍城を見るイメージを描いている。
堤防(石田堤)によって、城の周囲は水に覆われたものの、城の水没までには至らなかったと推定される。堤防の決壊もあり、忍城は小田原開城まで落城せず、「堅城」の評価を高めた。
発掘調査によって、石田堤は土俵(土を詰めた俵)を積み上げるなどの手法が使われたと推定されている。大土木工事による水攻めは、秀吉の力を見せつけるパフォーマンスでもあったようだが、その堤防は決壊し、水攻めは失敗に終わったとされる。
武蔵松山城と鉢形城のほぼ中間にある。
城址はよく保存されており、城としての完成度も高い。
しかし明確な文献資料はなく、築城者についても諸説論争がある。
321とほぼ同じ考証内容で、角度を変えて描いた。
川の蛇行地にあり、池と湿地が城を囲んでいる。
813の忍城と同様、関東の低地に見られる水城。
戦国時代に築城され、その縄張りを引き継ぎながら江戸時代に存続したのも、忍城と共通。
イラストは、豊臣秀吉の北条攻めに備えて、総構えが造られた頃を想定している。
戦国時代、成田氏によって築城された水郷地帯の水城で、石田三成の水攻めにも耐えた。
その後、忍城は近世城郭として改修され、江戸時代にも存続した。
イラストは、天正期の図の写しとされる絵図を中心資料に、戦国期の状況を描いている。
当時は江戸期よりも水堀(湿地を含む)が広かったと推定される。
狭山市の小規模な戦国城郭。
入間川の段丘に作られた城で、敵に横矢をかける土塁の張り出しが注目される。
河越夜戦直前に、上杉氏が築城したと想定。
秩父の奥、荒川上流を望む城。
戦国時代前期に長尾景春が関東管領の上杉氏に反旗を翻した際、その拠点として築城したと考えられる。
関東の代表的な戦国城郭の一つ。
835でも別の角度から描いている。
横矢がかりを多用したテクニカルな縄張りは、土の城の完成形のひとつとされる。
しかし文献資料がほとんどなく、築城者について諸説論争がある。
荒川沿いの山上にあり、鉢形城(寄居)の支城のひとつ。
一部には石垣もある。
史料が少ない城で、武蔵松山城の支城の可能性あり。
戦国時代の山城の発達した防衛戦術を見る事ができる。
寄居の鉢形城は、北条氏がこの地域の拠点とした城で、城下集落や総構えも持っていた。
そこから西へ、荒川沿いに点在する戦国城郭が、支城網を作っていたと想定して描いた。
川越市にある戦国期の平城。
以前は、館が発展した城と考えられていた。
しかし周囲に集落などがなく、在地支配の場所に向かないため、川越合戦のための陣城ではないかとの西股氏の解釈によって描いた。
武州松山城は、埼玉を代表する戦国城郭。
三方を川に守られた丘陵上に、空堀が網の目のように巡る。
何度も戦場となり、北条氏、武田氏などが激しい攻防戦を繰り広げた。