294 芥川山城

戦国時代 考証 中井均 2002年 『歴史群像 55 10月号』

高槻市に城址が残る三好長慶の居城。
長慶の後も三好氏の城だったが、織田信長の攻撃によって落城した。
典型的な戦国の山城。

286 岡ミサンザイ古墳城郭

戦国時代 考証 遠藤啓輔 2005年 『歴史群像 12月号』

歴史上に名前の残る城ではないが、古墳を利用した城(砦)の例としてイラスト復元。
大坂の陣で陣城になったとの考証もある。

785 真田丸

江戸時代 考証 坂井尚登 2015年n『歴史群像131 6月号』

真田丸は真田信繁(幸村)が大坂城の南端に築いた出丸。
大坂冬の陣で幕府軍を苦しめた。
真田丸は遺構が残らないだけに、復元案も複数ある。
このイラストは 地理の専門家である坂井尚登氏の考証によるもので、14のイラストとは別の絵図と、戦前の地形図を資料としている。

19 真田丸の構造

江戸時代 考証 香川元太郎 1996年  世界文化社『日本の城』

「大坂冬の陣屏風」からの推定。
屏風には攻城方、守城方ともに様々な構築物を築いた様子が描かれ、攻城に塹壕状の空堀が用いられたことも見て取れる。
これに、伝承のあるトンネル戦法も加えて図示した。

14 真田丸

江戸時代 考証 中井均 2000年 歴史群像シリーズ『 激闘大坂の陣』

複数ある真田丸の絵図のうち、丸馬出状に描かれたものをを基本資料とした復元案。
最近は四角い形の復元案が多く出されているが、丸馬出型にも説得力がある。

808 大坂城

江戸時代 考証 松岡利郎 2016年 『戦国王創刊号』

北北東から見た大坂城。
大坂冬の陣を想定して、真田丸や徳川家康本陣も示している。
外堀が川と繋がり、舟入がある様子は、大坂冬の陣の配陣図からの推定だが、16のように堀が独立した復元案もある。

26 大坂城天守

江戸時代 考証 香川元太郎 1993年 世界文化社「歴史法廷」

寛永期に建造。
同時期の江戸城天守よりわずかに小さいが、おそらく史上2番目に高い天守で、形もよく似ている。
現在の大坂城天守は、昭和初期の建造で、この徳川時代の天守台(天守石垣)の上に、秀吉時代の天守をイメージして作られた。

24 大坂城

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社

東から見た江戸中期の大坂城。
豊臣秀吉が築いた大坂城は、大坂の陣ののち、幕府の天下普請で再建された。
西国の要となる幕府直轄の城として、城代が置かれていた。
天守は落雷によって失われた後、再建されなかった。

18 大阪城 煙硝蔵

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社

大坂城に現存する火薬庫。
壁も床も天井も石造りで、木材は瓦を固定するためにしか使われていない。
大坂城では、当初の煙硝蔵が火事の際に爆発して大被害を出しており、この経験から防火性の高い蔵が工夫されたという。
同じタイプの煙硝蔵は、名古屋城、姫路城などにも存在したと思われる。

15 大坂城

江戸時代 考証 香川元太郎 2003年  PHP研究所「名城を歩く」11

江戸時代前期(寛永期)の大坂城。南から。
大坂の陣の際に埋め立て、破壊された秀吉時代の大坂城の上に、幕府が多くの大名を動員した天下普請で築かれた。
広い堀と高石垣のスケールの大きさは、日本の城でも随一。

32 大坂夏の陣

江戸時代 考証 香川元太郎 1994年  世界文化社

落城する大坂城のイメージ。
本丸には、右の秀吉時代の天守のほか、徳川家康が建てた天守(四階櫓)もあったとされ、「大坂夏の陣屏風」にそれらしい天守が描かれている。

27 大坂城 

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1993年  世界文化社

豊臣期の大坂城中心部を描いているが、堀の配置は「大坂冬陣配陣図」による。
このイラストを描いた時には、まだ障子堀が発見されていなかった。
また地形上、このように堀が全部水堀とは考えにくい。
16が、もっと調査が進んでから描いた復元イラスト

17 大坂城天守

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1993年 世界文化社

豊臣秀吉時代の天守を、北側の山里曲輪から見上げる。
天守外観は「大坂夏の陣屏風」からの推定。
形は昭和のコンクリート天守に似ているが、外壁が黒い。

16 大坂城

安土桃山時代 考証 中井均・樋口隆晴 2011年 学研『軍事分析 戦国の城』

秀吉時代の大坂城主要部を南から見る。
江戸時代の大坂城より縄張りが複雑で、本丸がいくつかの曲輪に分かれる。
複雑な縄張は、大坂城の前身である石山本願寺寺内の構造も、影響したものと思われる。
左の大手口(上町口)では障子堀が発見されている。

13 大坂城 大坂冬の陣

江戸時代 考証 香川元太郎 1994年 世界文化社『歴史法廷』

南から見る大坂冬の陣の様子。大坂城は広大な惣構(町家も取り込んだ外堀)を持ち、南に真田丸も増設されていた。
幕府軍はこれを攻めあぐねるが、大砲を用いたことで有利な講和に持ち込んだ。
「大坂冬陣配陣図」から描いており、距離感は多少デフォルメされている。