
古くから寺院が開かれた信貴山に造られた山城で、松永久秀が本拠とした。
山頂部から延びる尾根上に郭を並べた放射状の縄張り。
229の落城場面と同じ角度から、平常時の姿を想像復元して描いた。
古くから寺院が開かれた信貴山に造られた山城で、松永久秀が本拠とした。
山頂部から延びる尾根上に郭を並べた放射状の縄張り。
229の落城場面と同じ角度から、平常時の姿を想像復元して描いた。
平城京では中国の都城に倣って、東西に市の区画が作られたが、特に一般庶民も利用する東の市は活況を呈したとされる。奈良時代の市を描いた絵画資料はないので、平安、鎌倉時代の絵巻などを参考に想像した。
遠景に見えるのは東大寺。
石槨の壁画で知られる終末期古墳。
壁画には、四神・日月・人物像などが描かれている。
イラスト中に集う人物も、壁画の人物に準じた服装で描いた。
建立時の大仏殿を正面から見る。
このイラストでは、建物のディテールを、当時の大仏殿を描いた唯一の絵画史料「信貴山縁起絵巻」に拠って描いてみた。
大仏と大仏殿は、現在まで何度か被災や改築などを経ている。
イラストは建立された当時の大仏殿を描いており、現在の大仏殿より横幅が広かった。
彫刻家、戸津圭之介氏による鋳造過程の推定。
まず型となる仏像を粘土で作り、漆喰などで完成させる。
内部は空洞で、柱組みで支える。
内型となる仏像が完成したら、外型を作る。
隙間が均等に空くよう、支え(型持ち)を挟みながら、外型を配置する。
盛土の上に炉やたたら(ふいご)を設置し、銅を溶かして1000度くらいの温度にし、樋を使って型の隙間に流し込む。
鋳造が終わったら、上段から順に盛土と外型を取り除く。
銅が流れ込まなかった隙間や、型持ちの穴に銅を流し込む「鋳加え」を行う。
本体の鋳造後、台座(蓮華座)の鋳造を行ったと推定。
台座は、現在も奈良時代のものが最も多く残る。
塗金を行う。
金と水銀を混ぜたアマルガムを塗り、熱して水銀を蒸発させたと推定。
体への負担が大きい技法だった。
大仏鋳造の様子を推定復元。
型の間に銅を流し込む作業は、下から何段階にも分けて行われ、盛土を何度も積み上げながら作業が進められた。
この段階では露天状態なので、仮設の覆屋もあったと推定。
国家的一大事業だった東大寺建立で、最も大きなイベントとなった大仏開眼供養を想像復元。
インドから招いたボジセンナが大仏に目を書き入れる。
その筆に結ばれた長い糸を、多数の要人が握ってその瞬間を共有した。
法隆寺が現在の位置に建てられた当時の様子を再現。
金堂、五重塔とも、現在は一階にひさしがあるが、当初はなかったと考えられる。
現存する最古の五重塔内部。
中心の柱は頂上部のみで他の柱組みと繋がっており、途中部分は吹き抜け空間に独立している。
心柱の地下には仏舎利容器が収められている。
終末期の小規模な円墳。
壁画の発見で一躍脚光を浴びた。
石槨を収めた後の儀式をイメージ復元
板蓋宮と呼ばれた飛鳥京と、その周辺を南から描いた。
右下は石舞台古墳。
山田寺などの古代寺院も見える。
上部の平地には、のちに藤原京が作られるが、この一帯はあまり都には向かない低湿地だった。
平城京と、その周囲を南から描いた。
都城の東隣には東大寺があり、左斜め下の山裾には法隆寺などの寺院が並ぶ一画があった。
戦国大名松永久秀の本城。
聖地とされる信貴山の一画に造られた。
信長に攻め落とされる場面を描いている。