848 今治城

江戸時代 考証 井上淳・藤本誉博 2019/10

藤堂高虎が築城、近世城郭の完成形の一つ。しかし、多数の絵図を改めて検討し直すと、 海に面して二重櫓が立ち並ぶ部分は、寛永期に今治に入った松平氏が完成させたと推定される。同様に瀬戸内の海城として知られる高松城(76)も、寛永期に松平氏が改修して海側に櫓を増築しており、共通性が高い。

833 今治城

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年 ひめぎん情報

藤堂高虎が築城し、近世城郭の先駆けとなった城。
整然とした縄張りで、水堀と石垣で敵を遮り、攻防が集中する虎口には角馬出や枡形を設けている。

2010 来島城

戦国時代 考証 香川元太郎 1999年 村上水軍博物館蔵

来島村上水軍の本拠地。
能島村上水軍の能島城(2014)と同じく、島全体を城郭化している。
来島は能島より大きく水も得られて、定住可能なため、館も設けられていたと推定される。
海岸に岩礁ピット(穴)が並ぶのは村上水軍の城の特徴で、防御施設を兼ねた桟橋に囲まれていたと推定される。

2014 能島城

戦国時代 考証 香川元太郎 1999年 村上水軍博物館蔵

能島城(のしまじょう)は、村上三島水軍の中でも筆頭と詠われた、能島村上水軍の 看板的な城だったと思われる。
潮の速い海峡の小島で、定住には向かず現在は無人島。
瀬戸内の水運の要所を押さえ、通行税を取るには絶好の立地だが、村上氏が住む館は、近くの大島にあったと推定されている。

2023 村上水軍の海賊城マップ

戦国時代 考証 香川元太郎 1999年 村上水軍博物館蔵

現在のしまなみ海道にあたる地域。
下が愛媛県、上が広島県。
全盛期の村上水軍は三家に分かれており、黄が来島村上氏、赤が能島村上氏、青が因島村上氏の城と推定。
白は村上氏以外の城で、越智氏なども海に勢力を持っていた。

194 甘崎城

安土桃山時代 考証 中井均  2010年『 歴史群像 102  8月号』

大三島東岸の甘崎城を、海から望む。
城跡には、村上水軍の海賊城を特徴付ける海岸ピットと、織豊系の石垣遺構の両方が残る。
戦国城郭と織豊城郭が混在した独特の海上要塞。

2001 甘崎城

安土桃山時代 考証 中井均  2010年『 歴史群像 102   8月号』愛媛県歴史文化博物館蔵

甘崎城は、瀬戸内海の交通や信仰の中心だった大三島の、東岸に浮かぶ小島。
戦国時代には海賊城が築かれていたが、江戸初期に、藤堂高虎によって改修され、今治城の支城となった。
元和の一国一城令によって廃城。

1250 松山城 改修後の本壇

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像 147 2月号』

江戸中期の松山城本壇(天守曲輪)。
寛永期に松山城主となった松平定行は、加藤氏・蒲生氏が築城した城を改修し、本壇はほぼ現在と同じ姿になった。
連立天守の中庭には、現在の本壇にはない池があった。

1249 松山城 創建時本壇 第二案

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像 147 2月号』

松山城創建時の本壇、復元案の一つ。
1248と同じ水口図書館の平面図を、別の見方で考証した例。
幕府隠密による探索図など、他の史料と比較すると、簡素過ぎる印象がある。

1248 松山城 創建時本壇 第一案

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像 147 2月号』

加藤嘉明によって築城された松山城の本壇(創建時の本丸)復元案。
甲賀市水口図書館に保存されていた平面図と、幕府隠密による探索記録図から推定復元。
五基の二重櫓が並ぶが、天守らしい建物はない。
中央の池は、別の城下図にも記されており、重要だったと思われる。

2015 松山城 創建時

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年『歴史群像 147 2月号』
愛媛県歴史文化博物館蔵

伊予松山城は、加藤嘉明によって築城され、蒲生氏が完成させた。
幕府隠密による探索の記録も資料として、二の丸が完成間近の蒲生期の状況を推定復元した。
近年、絵図の新発見や再検討、発掘調査などの研究が進み、これまでのイメージとは異なる創建時の姿が明らかとなってきた。

84 松山城 本壇

江戸時代 考証 香川元太郎 1994年 学研 『名城の天守総覧』

本壇(天守曲輪)はこれだけで小さな城と言える堅固な造り。
ここに描く建物の半数は現存し、半数は木造で復元されている。
現在の本壇は幕末に作られたものだが、寛永期の本壇をほぼそのままに再建したと推定される。

81 松山城 大井戸断面

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

松山城二の丸で発掘された巨大な井戸。
江戸時代の二の丸平面図にも記されており、当時は半分程度が御殿の建物に覆われていた。
右には、御殿の奥に続く床下通路もある。

80 松山城 天守断面

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

現存する天守は幕末に建てられたものだが、寛永期の天守をほぼ忠実に再建したと考えられる。
現在は地下の入り口から1階に上がるが、この階段は見学の便利のために後付けされたもの。

74 松山城 創建時

江戸時代 考証 香川元太郎 2002年 PHP研究所『名城を歩く』3

松山城は平山城に分類されているが、山が高く、それぞれの曲輪の独立性が強いなど、山城的な要素が多い。
イラストは創建時を想定。
当時は建物が白壁、天守が五層、山に木が少なかった等の伝承記録から推定した。
しかし、最近の研究では異なる姿も推定される。→2015