
加藤嘉明によって築城された松山城の本壇(創建時の本丸)復元案。
甲賀市水口図書館に保存されていた平面図と、幕府隠密による探索記録図から推定復元。
五基の二重櫓が並ぶが、天守らしい建物はない。
中央の池は、別の城下図にも記されており、重要だったと思われる。
加藤嘉明によって築城された松山城の本壇(創建時の本丸)復元案。
甲賀市水口図書館に保存されていた平面図と、幕府隠密による探索記録図から推定復元。
五基の二重櫓が並ぶが、天守らしい建物はない。
中央の池は、別の城下図にも記されており、重要だったと思われる。
伊予松山城は、加藤嘉明によって築城され、蒲生氏が完成させた。
幕府隠密による探索の記録も資料として、二の丸が完成間近の蒲生期の状況を推定復元した。
近年、絵図の新発見や再検討、発掘調査などの研究が進み、これまでのイメージとは異なる創建時の姿が明らかとなってきた。
本壇(天守曲輪)はこれだけで小さな城と言える堅固な造り。
ここに描く建物の半数は現存し、半数は木造で復元されている。
現在の本壇は幕末に作られたものだが、寛永期の本壇をほぼそのままに再建したと推定される。
松山城二の丸で発掘された巨大な井戸。
江戸時代の二の丸平面図にも記されており、当時は半分程度が御殿の建物に覆われていた。
右には、御殿の奥に続く床下通路もある。
現存する天守は幕末に建てられたものだが、寛永期の天守をほぼ忠実に再建したと考えられる。
現在は地下の入り口から1階に上がるが、この階段は見学の便利のために後付けされたもの。
松山城は平山城に分類されているが、山が高く、それぞれの曲輪の独立性が強いなど、山城的な要素が多い。
イラストは創建時を想定して描いたもので、松平定行による改修の前に、天守が五層だった、白壁だった、山に木が少なかった等の伝承記録から推定した。
最近の研究により、加藤嘉明による創建時には異なる姿が推定されている。→2015
しかし、蒲生忠知によって五重天守が上げられた可能性も指摘されており、その場合は蒲生期の復元案とすることができる。