466 参勤交代の大名行列

江戸時代 考証 原史彦 2007年 朝日ビジュアルシリーズ『週間 藤沢周平の世界』17

大名行列が江戸の町に差し掛かった所を想定。
領地を出る際には必ずしも大行列ではなかったが、江戸に入る時には臨時雇いで人数をそろえ、体裁を整えることも多かったという。

440 新宿の闇市

昭和時代 考証 小林克 2005年 『歴史群像シリーズ 79 実録日本占領』

闇市は、戦後の焼け跡で自然発生したが、やがてテキヤなどが仕切るようになる。イラストに描いた新宿東口和田組マーケットのように、整理された商店街も現れた。
5年ほど活況を呈したが、GHQの圧力で解体された。

432 鹿鳴館

明治時代 考証 香川元太郎 1997年 『分解図鑑 日本の建造物』

鹿鳴館は、文明開化の象徴として有名。ヨーロッパ式の舞踏会などが開かれた。
しかし、その存続時期は意外に短い。
イラストでは、内部構造を細かく割って見せた。

429 後楽園球場

昭和時代 考証 香川元太郎 2009年 週間朝日百科『週間 昭和』32 昭和51年

ドーム化される以前の球場で、王貞治がホームラン数の世界新記録を達成した際の状況を、可能な限り再現した。

427 昭和42年頃のオフィス

昭和時代 考証 小泉和子 2009年 週間朝日百科『週間 昭和』17 昭和42年

右の新聞社では伝書鳩が使われ、鉛筆削りのアルバイト学生もいる。
部屋にはタバコの煙が立ちこめ、屋上で弁当を食べたり、バレーボールに興じるなど、昭和のサラリーマンの典型的な様子を描いた。
左の商社では、テレックスの紙テープが床に渦を巻いている。

426 銀座ACB

昭和時代 考証 岐部一夫 2009年 週間朝日百科『週間 昭和』14 昭和46年

銀座ACB(ぎんざアシベ)は、昭和40年代に一斉を風靡したジャズ喫茶。
グループ・サウンズやアイドル歌手のステージも行われ、熱狂的なファンが詰めかけた。
もともと大量の観客が入ることは想定されておらず、二階の手すりが壊れて客が落ちる事故もあったという。

375 品川沖台場の配置

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

ペリーの来航以降、外国船の脅威を感じた幕府は、江戸の海上で敵船を迎えうつための海上台場を5つ設置した。
計画された海上台場は11基で、その半分しか完成しなかったが、御殿山下などの海岸台場と合わせて、江戸湾の防衛網を形成した。
現在の「お台場」もこの周辺を埋め立てて造られた地域。

374 品川沖台場 第一台場

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

江戸湾海上の台場のうち、最も西に位置したもの。直接波を受ける土台は緻密な石垣造りで、上部は砲撃のダメージを受けにくい土塁造り。
大砲での攻防を重視した構造は、当時の先端的な築城だった。

296 八王子城(裏)

戦国時代 考証 西股総生 2013年 『歴史群像 117 2月号』

北条氏が、豊臣秀吉の進行を防ぐために整備した大規模な山城。
豊臣方の大軍によって一日で落城した。
245でも描いたが、それとは異なる西股氏の復原案をイラスト化。
当時は、現在観察される以上に石垣が多用されたと推定。
搦手とされる西側から見ているが、豊臣軍は西から攻めてきたので、西側に防御の重点が置かれていたとも考えられる。

245 八王子城

戦国時代 考証 香川元太郎 2000年『日本人は石で何を作ってきたか』

八王子城は、東京で最も大規模な山城で、谷の居館群と山上の曲輪、それらを囲む尾根上の出城群からなる。
現在は、居館跡に大規模な石垣が復元されている。
イラストは居館がある西側から見ており、通常の城ではこちらが表側。
推定復元が多い 296の案に対して、現状の遺構を踏襲した復元案。

239 深大寺城

戦国時代 考証 西股総生 2008年 『歴史群像 88  4月号』

現在の神代植物園に隣接した戦国城郭で、堀の一部が残る。
関東によく見られる、舌状台地の先端の城。
北条氏の関東支配が進んだ頃には、使われなくなったと思われる。

222  辛垣城

戦国時代 考証 西股総生 2011年 『歴史群像 109 10月号』

青梅(二俣尾駅の北の山)の城。
三田氏が治めた城で、東京には珍しい本格山城のひとつ。

743 家康入城時の江戸城

戦国時代 考証 香川元太郎 1990年 『 東京の一万年 上巻』

戦国時代の江戸城は、太田道灌が築城し、のちに北条氏の配下となっていた。
北条氏滅亡後に徳川家康が入場した時、御殿はかなり痛んだ状態だったが、家康は応急修理をして使ったと記録されている。

840 江戸城

江戸時代 考証 香川元太郎 2018年 ベストパートナー 12月号(浜銀総合研究所)

徳川家康時代の江戸城を、「慶長13年江戸図」と「江戸始図」から推定。
江戸始図で「5連続枡形」と言われた部分は、その後の寛永年間の江戸城では狭い通路として残されており、戦国時代の江戸城からの登城道が引き継がれたものと想定している。

162 江戸城 寛永期天守と北桔橋門

江戸時代 考証 香川元太郎 1994年 学研 『名城の天守総覧』

三代将軍家光時代の寛永期天守を北から見る。
江戸城では、家康、秀忠、家光と将軍が代替わりするたびに、新しい天守が建造された。
寛永期天守も当時日本一大きい天守だったが、江戸の町を火の海にしたという明暦の大火で、御殿などと共に焼失。
その後天守は再建されなかった。