
平安時代後期から三浦半島一帯を領した三浦氏の本拠。源平合戦の初期、三浦氏は源頼朝を支援して挙兵するが、頼朝は石橋山合戦で敗れ、房総に逃れる。三浦氏は衣笠城で平家方の畠山氏を迎え撃つが、翌日には城を出てやはり房総へ逃れた。
この時期はまだ城の構造も城攻め法も未発達で、野戦に近い攻防の様子を推定して表現した。
平安時代後期から三浦半島一帯を領した三浦氏の本拠。源平合戦の初期、三浦氏は源頼朝を支援して挙兵するが、頼朝は石橋山合戦で敗れ、房総に逃れる。三浦氏は衣笠城で平家方の畠山氏を迎え撃つが、翌日には城を出てやはり房総へ逃れた。
この時期はまだ城の構造も城攻め法も未発達で、野戦に近い攻防の様子を推定して表現した。
2020年の新作で、堀や切岸の赤土も意識して表現した。惣構えの完成時を想定し、矢倉や柵などは小田原合戦の配陣図から推定。旧作イラストの制作以降、部分的ながら多数の発掘調査が行われ、江戸時代の「三の丸」が戦国期にはまだなかったことや、障子堀に囲まれた方形館が城下に点在したことが分かってきた。海際にはまだ不明点もあり、東側の山王口は、渡し船などで旧東海道に繋がると推測した。
神奈川県藤沢市に城址がある。扇ヶ谷上杉氏が山之内上杉氏との抗争時に築き、最終的には伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略したとされる。 関東に多い台地の先端部を利用する城だが、 横堀を重ねた厳重な守りが特徴。
小机城は、戦国時代に北条氏の拠点の一つだった。
南東から見ており、上を流れるのは鶴見川。
西股総生氏による復元案で、巨大な空堀が、当時は障子堀だったと推定。
小机城は横浜市港北区の戦国城郭で、玉縄城と同様に、北条氏の拠点城郭のひとつ。
2つの中心曲輪と、それを囲む大規模な空堀が特徴。
北東から見ており、832よりも現状の遺構に即した復元案。
玉縄城は、鎌倉近くに築かれた北条氏の拠点城郭。
地質は鎌倉に似ており、複雑に谷戸が入り込んでいる。
801とほぼ同じ内容を、別角度から描いた。
北条氏の拠点城郭の一つ。
すり鉢状の地形を中心にした独特の縄張りが特徴。
ここを本拠とした玉縄衆は、北条軍の中でも特に精鋭として知られていた。
坂井尚登氏の復元案。
北条氏による築城で、山頂の曲輪には石垣が使われている。
関東では珍しい畝状竪堀の遺構もある。
現在、山裾の川はダムが設けられて湖となっている。
横浜はもともと河口に発達した砂州で、開港当初は堀で外から切り離された島となっていた。
イラストは明治中期の状況で、中央の公園が現在の横浜スタジアム。道路が斜めになった地域が中華街。
手前の堤防は「象の鼻」と呼ばれ、大桟橋の根元に当たるが、2009年に明治期の形が復元された。
中世の鎌倉を南から見る。
鎌倉を囲む山上には切岸による防衛線が巡らされ、「切り通し」と呼ばれる虎口が設けられた。
海岸線は今よりも深く入り込み、鶴岡八幡宮の一の鳥居は海岸に面していた。
東の和賀江島は人工の堤防。
横浜市の大塚遺跡をモデルにした、環濠集落の断面。
柵は、平坦部の縁ではなく、堀の外の土塁上に立てられており、柵を越えようとする敵を狙い撃つ戦い方が想定される。
横浜市にある弥生時代の環濠集落で、イラスト上部の歳勝土遺跡は、多数の墓が並んでいる。
大規模発掘調査で、環濠や柵の跡などが発見された。
現在は史跡公園となり、復元された住居なども見学できる。
北条市の水軍の拠点のひとつ。
293と逆方向から見て、左下の外郭線ラインも異なる考証で描いている。
戦国期を含む中世には、川の河口部が広い潟湖状になり、港として使われる例が多い。
三浦半島先端部の城で、 奥に見えるのは城ヶ島。
三浦氏が築城したものを、北条氏が配下に収めて改修したと推定される。
北条氏の水軍の拠点で、しばしば安房の里見氏に攻められている。
石垣山城は、豊臣秀吉が小田原攻めのために築いた大規模な陣城。
イラストは城が完成した時を想定。
小田原攻めの際には211のように建設途中だったかもしれないが、その後も工事が続けられて、天守も完成したと推定した。