2026 閑山島の戦い

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1998年 村上海賊ミュージアム蔵

秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)では、戦い慣れた日本軍が朝鮮の都市を次々と制圧したが、李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の活躍が日本側の勢いを阻んだ。
イラストは閑山島(ハンサンド)の戦いを想定したもので、地形を熟知した李舜臣の戦術と、新兵器「亀甲船」によって、脇坂安治の水軍が大打撃をこうむった。

782  長門浦城•松真浦城

安土桃山時代 考証 三島正之 2014年『歴史群像 128 12月号』

韓国南部、巨済島(コゼド)の倭城。
文禄・慶長の役の際、日本軍は現地の拠点として多くの城を築いた。
これを「倭城」と呼び、近世城郭の発達史の中で重要な存在。
巨済島の倭城群は、李舜臣率いる朝鮮水軍に圧倒されていた日本水軍を守るため、湾の入り口を抑えていた。

653 碧蹄館の戦い

安土桃山時代 考証 香川元太郎 2001年『 歴史群像シリーズ特別編集 図説戦国合戦集』

文禄の役で平壌まで進行した日本軍は、明・朝鮮軍の攻勢を受けて漢城まで後退する。
進行する明・朝鮮軍と、それを迎え討つ日本軍は漢城北西の谷、碧蹄館(へきていかん ピョクチェグァン)で激突、日本側が勝利した。

826 泗川倭城

安土桃山時代 考証 堀口健弐 2018年『 歴史群像 148 4月号』

泗川(しせん サチョン)倭城の中心部。
秀吉が死去した後の撤退戦で、この城に籠る島津軍が、明の大軍を撃退した。
朝鮮側の絵図などを資料にした堀口氏の復元案。

191 泗川倭城

安土桃山時代 考証 高田徹 2001年 歴史群像シリーズ 戦国 セレクション 島津戦記』

泗川倭城は、朝鮮半島南岸のほぼ中央に築かれていた。
826でも中心部を描いたが、このイラストは高田氏による復元案で、国内の近世城郭に近いイメージ。

190 順天倭城

安土桃山時代 考証 中井均 2001年 『歴史群像 46 4月号』

順天(じゅんてん スンチョン)倭城は、西の最前線の倭城。
小西行長らの武将が守っていたが、明・朝鮮連合軍の攻撃を受け、激しい戦いの末、これを撃退。
秀吉の死によって慶長の役は終結に向かい、各武将は大きな犠牲を払いながら朝鮮半島から撤退した。