2063 尼崎城天守

江戸時代 考証 室谷公一・尼崎市立歴史博物館 2022年 尼崎市(尼崎城)蔵

尼崎城を築いた戸田氏は、岐阜県の大垣城も築いており、4層の白亜の天守は、大垣城の天守と類似している。
しかし、規模は尼崎城のほうが一回り大きい。
柱の位置が分かる各階平面図が残されており、外観も複数の絵図に描かれており、概ね正確に復元できる。柱組は推定で描いている。

2064 尼崎城

江戸時代 考証 室谷公一・尼崎市立歴史博物館 2022年 尼崎市(尼崎城)蔵 

大坂の陣後の元和年間に戸田氏が築いた城で、徳川幕府は姫路城、明石城などと共に、西国の外様大名に対する抑えと位置付けていた。
江戸時代中期~後期の城と城下を東側から見ている。
尼崎城は整然とした近世城郭で、城下町の武家屋敷や町屋にも瓦葺きが浸透し、江戸時代でも特に都会的な城と城下だったと思われる。左上の山は六甲山で、尼崎との間に流れる武庫川は、現在と異なる流路もあった。

2027 明石城

江戸時代 考証  香川元太郎・稲原昭嘉  2018年  攻城団製作パンフレット 明石観光協会蔵

江戸時代初期の状況を絵図と文献から推定した。
天守台は造られたが、天守は建てられなかった。
しかし4基の3階櫓が本丸の四方にそびえ、本丸御殿にも3階楼があったという。
のちに本丸御殿は撤去され、三の丸内に堀を巡らせた御殿が整備された。
西の「樹木屋敷」には宮本武蔵が設計した庭があったとされ、旧陸軍の地図にも池が描かれている。

376 和田岬砲台

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

幕末の砲台だが、それまでの砲台とは異なり、石造りの塔に設置された。
「マルテロ塔」など、同時期のヨーロッパの小型要塞に似たものがあり、これらに倣ったと思われる。稜堡状の外郭もあった。

216 篠山城

江戸時代 考証 篠山市教育委員会 2002年 『歴史群像 52 4月号』

幕府の命によって造られた天下普請の城。
縄張りは藤堂高虎。
名築城家と言われた高虎は、幕府の城でも度々縄張りを担当しており、特に篠山城の築城で近世城郭の典型的なパターンを完成させたと思われる。

51 竹田城

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社『ビッグマンスペシャル 秀吉の城』

「天空の城」として有名。
豊臣政権時代に赤松広秀が完成させ、江戸時代初期に廃城になる。
総石垣で完成度の高い織豊城郭。建物は推定で描いた。

50 姫路城 天守曲輪

姫路城の線画イラスト。
天守へのルートは、小さい門が連続する極めて堅固な防御プラン。
左下の「ほの門」から、西小天守地下の「水六門」まで、合計7つの門がある。

48 姫路城鳥瞰

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

江戸時代の姫路城総構えの全体像。
内堀から中堀、外堀へと、堀が渦巻き状に伸びる構成となっていることから、渦郭式縄張りとの呼び方もある。
40でも同じ題材を描いている。

47 姫路城内曲輪

江戸時代 考証 香川元太郎 2001年 PHP研究所 歴史街道スペシャル『名城を歩く』1

西の丸や三の丸の御殿も完成した状況。
平成に入ってから、江戸中期(1700年前後)の建物配置を記した平面図が発見され、当時の御殿配置などが分かるようになった。

45 姫路城 にの門

江戸時代 考証 香川元太郎 1995年 学研 『城郭建築の至宝姫路城』

菱の門から天守に向かうルートで5番めの門。
櫓の地下をL字型に折れながら潜り抜ける特殊な構造の門。

43 姫路城 天守3階

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

大天守内でも特に3階は天井が高い。
高い窓を利用するための石打棚がある他、屋根裏を利用した部屋が周囲を巡る立体的な構造。

42 姫路城 ぬの門櫓断面

江戸時代 考証 香川元太郎 1995年 学研『城郭建築の至宝姫路城』

場内に現存する門の中でも、二階造りの渡櫓門は唯一。
外見では隣の渡櫓と繋がっているが、内部は連続しない。

41 姫路城 天守断面

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

西から見て、小天守を取り除いてその地下を見せている。
連立天守の渡櫓の下にある水五の門を潜ると、小さな枡形空間がある。
西小天守の地下の水六門を入り、建物内を通ってやっと中庭に出る。

40 姫路城 惣構え

江戸時代 考証 多田暢久 1992年 『歴史群像シリーズ  豪壮秀吉軍団』

江戸時代の姫路城には、城下町を取り囲む惣構えがあった。
その規模は江戸城に次ぐもので、それぞれの虎口は枡形門を備えていた。
48も同じ題材を描いたもの。

39 姫路城

江戸時代 考証 中井均 2010年 『歴史群像 99 2月号』

現存する天守は池田輝政によって造られたもので、当時の様子を想定した。
後に建物が建ち並ぶ西の丸(左)は、当時の状況は不明。