
小倉城は、港を取り込んだ惣構えを持つ大規模な海城。
1866年の第二次長州征討では、小倉口が主戦場となる。
幕府方の足並みの乱れから孤立した小倉藩は、小倉城に火を放って退去した。

小倉城は、港を取り込んだ惣構えを持つ大規模な海城。
1866年の第二次長州征討では、小倉口が主戦場となる。
幕府方の足並みの乱れから孤立した小倉藩は、小倉城に火を放って退去した。

小倉城は、細川忠興が築き、その後小笠原氏の城となった。
河口の港を取り込んだ惣構え(外堀)を持ち、水堀が幾重にも巡らされていた。
水城(海城)の中でも最も大規模なもの。

小倉城天守は、破風のない層塔型の天守で、最上階が張り出す個性的な外観。
内部の一階には、天守としては珍しい湯殿が設けられていた。

細川忠興時代に建てられたもので、最上階が張り出す独特な外観は「南蛮造り」と呼ばれた。
現在の復興天守には破風が付けられているが、もとは全く破風のない天守だった。

長宗我部氏が秀吉の軍門に下った後、居城として整備した。
高知で初めての織豊城郭と思われるが、遺構の多くは破壊されており、推定の多い復元。
手前が観光地として知られる桂浜。
右下の出丸には現在、坂本龍馬銅像が立ち、背後の海は埋め立てられて駐車場となっている。

高知城天守は、現存天守の一つで、小ぶりながら内部は6階建て。
一階の土台部分には忍返しが付く。

江戸後期の高知城を南から見る。
天守のある本丸と、御殿がある二の丸(上)が並び立ち、廊下橋によって連結された構造が個性的。
二の丸の石垣に取りつく階段は、石垣下から御殿へのショートカットで、江戸後期の増築と思われる。

南西アングルから見て、縄張りを示した。屋敷や町屋は省略した概念イラスト。

来島村上水軍の本拠地。
能島村上水軍の能島城(2014)と同じく、島全体を城郭化している。
来島は能島より大きく水も得られて、定住可能なため、館も設けられていたと推定される。
海岸に岩礁ピット(穴)が並ぶのは村上水軍の城の特徴で、防御施設を兼ねた桟橋に囲まれていたと推定される。

能島城(のしまじょう)は、村上三島水軍の中でも筆頭と詠われた、能島村上水軍の 看板的な城だったと思われる。
潮の速い海峡の小島で、定住には向かず現在は無人島。
瀬戸内の水運の要所を押さえ、通行税を取るには絶好の立地だが、村上氏が住む館は、近くの大島にあったと推定されている。

現在のしまなみ海道にあたる地域。
下が愛媛県、上が広島県。
全盛期の村上水軍は三家に分かれており、黄が来島村上氏、赤が能島村上氏、青が因島村上氏の城と推定。
白は村上氏以外の城で、越智氏なども海に勢力を持っていた。

大三島東岸の甘崎城を、海から望む。
城跡には、村上水軍の海賊城を特徴付ける海岸ピットと、織豊系の石垣遺構の両方が残る。
戦国城郭と織豊城郭が混在した独特の海上要塞。

甘崎城は、瀬戸内海の交通や信仰の中心だった大三島の、東岸に浮かぶ小島。
戦国時代には海賊城が築かれていたが、江戸初期に、藤堂高虎によって改修され、今治城の支城となった。
元和の一国一城令によって廃城。

江戸中期の松山城本壇(天守曲輪)。
寛永期に松山城主となった松平定行は、加藤氏・蒲生氏が築城した城を改修し、本壇はほぼ現在と同じ姿になった。
連立天守の中庭には、現在の本壇にはない池があった。

松山城創建時の本壇、復元案の一つ。
1248と同じ水口図書館の平面図を、別の見方で考証した例。
幕府隠密による探索図など、他の史料と比較すると、簡素過ぎる印象がある。