室町幕府最後の将軍、足利義昭の屋敷。織田信長が全面的にバックアップして築城し、最初の二条城とも言われている。応仁の乱の後、京都は上京と下京に分かれて復興したが、その2つの街を結ぶ室町通りに面して造られたことが知られる。部分的な発掘調査の結果から、2重の堀があったと考えられ、内堀に面して階段状の石垣や、杮葺きまたは檜皮葺の天守があったとの推定によって描いた。
投稿者: さちたろう
882 小諸城
眼下に千曲川を望む台地上にあり、「田切地形」と呼ばれる、細い谷が連続する独特の地形を生かして築城され、戦国時代から地域の拠点となっていた。豊臣政権下で仙谷秀久が配され、織豊城郭に改修された。江戸中期に、城の修理を行った大工が詳しい図面を残しており、城の建物は概ねこれに従って描いている。「三の丸」屋敷地や、城下集落は推定。江戸中期には、城下町ももっと広がっていた。
883 若桜鬼ヶ城
戦国時代、国人領主の矢部氏の城で、尼子氏が攻め落とした歴史もある。信長の中国攻めで秀吉が鳥取城を落すと、鬼ヶ城には木下重堅が配されて関ヶ原合戦まで居城とした。この期間に織豊城郭に改修されたと思われる。戦国時代の城跡の中心部が堅固な惣石垣で築城され、半地下式と思われる天守も大きい。江戸時代になると山崎氏が配されるが、元和年間に改易、廃城となる。城は、意識的に城割が行われた遺構としても貴重とされる。
2092 上ノ郷城
戦国時代には今川氏の有力武将だった今川氏の有力武将だった鵜殿氏の居城。徳川家康に攻められて落城し、その後は久松氏の城となった。主郭は発掘調査が行われている。
イラスト制作では、戦国時代の蒲郡の景観復元にも努めた。遠景に見える城は、左に海に突き出た不相城、丸い縄張りの下ノ郷城、右端に竹ノ谷城。右手前は、鵜殿氏の菩提寺だった長応寺を想定。海の向こうには渥美半島を望んでいる。
2091 鎌刃城
琵琶湖の東側で、江北と江南の境目に位置する城として、六角氏、京極氏、浅井氏の攻防の舞台となった。浅井氏の下で城主となった堀氏は、織田方に寝返るが、その後堀氏の改易で廃城になった。
半地下構造の大櫓をはじめ石垣が多用されているが、織豊城郭以前の手法と推定されている。水の手は離れた水源から、木樋で引き込んだらしい。廃城の際に破城された痕跡も残り、戦国の城の発達を語る貴重な遺構と評価されている。
2093 忍城水攻め
戦国時代の忍城は、成田氏の城で湿地に囲まれた堅城として知られていた。羽柴秀吉による小田原攻めの際に、石田三成が水攻めにした様子を想像を交えて描いている。
三成は、さきたま古墳群の一画、丸墓山古墳に本陣を置き、長大な堤防を築いて利根川の水を流し込んで水攻めにした。
2094 忍城水攻め 石田本陣
忍城の水攻めの際、石田三成が本陣の丸墓山から忍城を見るイメージを描いている。
堤防(石田堤)によって、城の周囲は水に覆われたものの、城の水没までには至らなかったと推定される。堤防の決壊もあり、忍城は小田原開城まで落城せず、「堅城」の評価を高めた。
2095 忍城水攻め 石田堤決壊
発掘調査によって、石田堤は土俵(土を詰めた俵)を積み上げるなどの手法が使われたと推定されている。大土木工事による水攻めは、秀吉の力を見せつけるパフォーマンスでもあったようだが、その堤防は決壊し、水攻めは失敗に終わったとされる。
2089 菩提山城
戦国時代に竹中重元が築城。以後、重治(半兵衛)、重門の3代に渡って竹中氏の居城。中でも生涯居城としたのは竹中半兵衛で、半兵衛の城として知られている。
大規模な竪堀と横堀、高い切岸は見ごたえがある。大手道の随所に堅固な防御ポイントが配されており、戦国時代の発達した土の城として完成度が高い。
2090 大桑城(おおがじょう)
美濃の国の守護大名、土岐氏の居城。土岐氏はもともと岐阜の平地に守護所を構えていたが、水害を機に大桑城を築城して本拠とした。険しい山に居城を移したのは、稲葉山城を本拠に勢力を拡大していた斎藤道三への対策だろう。
稲葉山城と同じくチャートの岩山で、石垣も多数発見されている。尾根上に曲輪を繋げ、谷には階段状の居住曲輪群を設けており、多数の建物があったと推定される。
2082 佐伯城1740年頃(江戸中期)
元文年間の絵図を中心史料として、江戸中期の佐伯城と城下町を鳥瞰した。天守は江戸初期の間に失われているが、その他の櫓群は健在。山上の曲輪群の建物には、下見板張りの絵図資料もあるが、元文の絵図では白壁と下見板が描き分けられており、山上は御殿を除いて白壁に描かれている。当初白壁だった建物が、江戸後期の補修によって下見板張りに変えられたと考えられる。
881 一宮城
徳島を代表する戦国城郭で、三好氏や長曾我部氏の攻防の舞台になった。さらに羽柴秀吉の四国攻めでは長曾我部軍主力が入城。
長曾我部氏が秀吉の軍門に下ると、阿波には蜂須賀氏が入って徳島城を築くが、一宮城も支城として整備。イラストはこの時期を描いている。戦国期の曲輪の多くは放棄され、本丸と明神丸だけが使われたと推定。本丸の石垣は徳島城と同タイプ。
880 江戸城1590年(家康入城時)
西股氏による想像復元。江戸城は、それまで北条氏の拠点城郭のひとつだった。鉢形城に見られる内側を石積みで土留めした土塁や、北条氏の城に多く見られる障子堀も設けられていたと想定。城下町は小田原城に次ぐ規模だったと思われるが、籠城戦の際に焼き討ちされて荒れていたと想定した。
193 水口岡山城
豊臣秀吉政権時代に、中村一氏が築城。典型的な織豊城郭で、尾根上の主要部は総石垣で天守もあるが、一方で堀切や竪堀など戦国の山城の防御施設も見られる。関ヶ原合戦後、廃城となった。
2080 福山城
幕末期の福山城を正面(南)側から描いた。画面上部の蓮池川から取水して2重の堀に水を引き込み、右下の運河は海へ通じていた。福山城には多くの古写真が残されており、天守や櫓などはそれらの資料から描いている。もともと最上階に高欄が廻らされた天守と月見櫓は、いずれも幕末期には突き上げ式の黒い雨戸で覆われていた。
本丸中央に、一棟だけ檜皮葺の屋根に描いたのは、伏見櫓と共に伏見城からの移築とされる「伏見御殿」