
890 小田原城(未完)






室町幕府最後の将軍、足利義昭の屋敷。織田信長が全面的にバックアップして築城し、最初の二条城とも言われている。応仁の乱の後、京都は上京と下京に分かれて復興したが、その2つの街を結ぶ室町通りに面して造られたことが知られる。部分的な発掘調査の結果から、2重の堀があったと考えられ、内堀に面して階段状の石垣や、杮葺きまたは檜皮葺の天守があったとの推定によって描いた。

眼下に千曲川を望む台地上にあり、「田切地形」と呼ばれる、細い谷が連続する独特の地形を生かして築城され、戦国時代から地域の拠点となっていた。豊臣政権下で仙谷秀久が配され、織豊城郭に改修された。江戸中期に、城の修理を行った大工が詳しい図面を残しており、城の建物は概ねこれに従って描いている。「三の丸」屋敷地や、城下集落は推定。江戸中期には、城下町ももっと広がっていた。

戦国時代、国人領主の矢部氏の城で、尼子氏が攻め落とした歴史もある。信長の中国攻めで秀吉が鳥取城を落すと、鬼ヶ城には木下重堅が配されて関ヶ原合戦まで居城とした。この期間に織豊城郭に改修されたと思われる。戦国時代の城跡の中心部が堅固な惣石垣で築城され、半地下式と思われる天守も大きい。江戸時代になると山崎氏が配されるが、元和年間に改易、廃城となる。城は、意識的に城割が行われた遺構としても貴重とされる。

戦国時代には今川氏の有力武将だった今川氏の有力武将だった鵜殿氏の居城。徳川家康に攻められて落城し、その後は久松氏の城となった。主郭は発掘調査が行われている。
イラスト制作では、戦国時代の蒲郡の景観復元にも努めた。遠景に見える城は、左に海に突き出た不相城、丸い縄張りの下ノ郷城、右端に竹ノ谷城。右手前は、鵜殿氏の菩提寺だった長応寺を想定。海の向こうには渥美半島を望んでいる。

琵琶湖の東側で、江北と江南の境目に位置する城として、六角氏、京極氏、浅井氏の攻防の舞台となった。浅井氏の下で城主となった堀氏は、織田方に寝返るが、その後堀氏の改易で廃城になった。
半地下構造の大櫓をはじめ石垣が多用されているが、織豊城郭以前の手法と推定されている。水の手は離れた水源から、木樋で引き込んだらしい。廃城の際に破城された痕跡も残り、戦国の城の発達を語る貴重な遺構と評価されている。

戦国時代の忍城は、成田氏の城で湿地に囲まれた堅城として知られていた。羽柴秀吉による小田原攻めの際に、石田三成が水攻めにした様子を想像を交えて描いている。
三成は、さきたま古墳群の一画、丸墓山古墳に本陣を置き、長大な堤防を築いて利根川の水を流し込んで水攻めにした。

忍城の水攻めの際、石田三成が本陣の丸墓山から忍城を見るイメージを描いている。
堤防(石田堤)によって、城の周囲は水に覆われたものの、城の水没までには至らなかったと推定される。堤防の決壊もあり、忍城は小田原開城まで落城せず、「堅城」の評価を高めた。

発掘調査によって、石田堤は土俵(土を詰めた俵)を積み上げるなどの手法が使われたと推定されている。大土木工事による水攻めは、秀吉の力を見せつけるパフォーマンスでもあったようだが、その堤防は決壊し、水攻めは失敗に終わったとされる。

戦国時代に竹中重元が築城。以後、重治(半兵衛)、重門の3代に渡って竹中氏の居城。中でも生涯居城としたのは竹中半兵衛で、半兵衛の城として知られている。
大規模な竪堀と横堀、高い切岸は見ごたえがある。大手道の随所に堅固な防御ポイントが配されており、戦国時代の発達した土の城として完成度が高い。

美濃の国の守護大名、土岐氏の居城。土岐氏はもともと岐阜の平地に守護所を構えていたが、水害を機に大桑城を築城して本拠とした。険しい山に居城を移したのは、稲葉山城を本拠に勢力を拡大していた斎藤道三への対策だろう。
稲葉山城と同じくチャートの岩山で、石垣も多数発見されている。尾根上に曲輪を繋げ、谷には階段状の居住曲輪群を設けており、多数の建物があったと推定される。

元文年間の絵図を中心史料として、江戸中期の佐伯城と城下町を鳥瞰した。天守は江戸初期の間に失われているが、その他の櫓群は健在。山上の曲輪群の建物には、下見板張りの絵図資料もあるが、元文の絵図では白壁と下見板が描き分けられており、山上は御殿を除いて白壁に描かれている。当初白壁だった建物が、江戸後期の補修によって下見板張りに変えられたと考えられる。