878 佐伯城 創建時 

江戸時代 考証 中井均 2023年『歴史群像 6月号 179』

江戸時代初頭に、毛利高政によって築城された近世の山城。
水の手として、2つの大きい池がある事や、本丸の虎口が廊下橋のみであることなどが特徴。
まだ城下町は建設が始まったばかりで、山麓の三の丸も整地前の状況を想定している。
本丸の建物は下見板張りの資料もあるが、創建時には白壁と推定。天守は三層だったとされるが、比較的早くに失われ資料が残っていない。

868 歴史迷路 安土桃山時代~現代

2010 年 文溪堂資料集 2021年加筆

小学校社会科資料集に描いた迷路イラスト。
現行の資料集でも、冒頭の折込みページに収録。
左側は867から続く横長イラストで、最後の現代の場面は、時代の変化に応じて加筆を繰り返している。

867 歴史迷路 縄文時代~戦国時代

2010 年  文溪堂資料集

小学校社会科資料集に描いた迷路イラスト。正解コースは時代の順番になっており、各時代を特徴づけるモノと言葉が、かくし絵とかくし文字で一つずつ入れてある。
右側は868に続く横長イラストで、資料集の冒頭に折込みページで掲載されている。

2073 久野城

江戸時代 考証 加藤理文・袋井市教育委員会 2022年 袋井市蔵

今川氏旗本の久野氏が築城したとされ、徳川家康政権下では遠江の拠点として松下氏が入城、城を整備した。その後、再び久野氏などが入城するが、正保元年に廃城となる。
池と川、湿地に突き出た丘陵の城で、丘続きの北側を大堀切で断ち、大規模な横堀などで防御する。発掘調査などで搦手門は確認されているが、大手口が不明。ここでは湊が大手口にあたるとの想定によって描いた。

875 掛川城攻め付城群

戦国時代 考証 加藤理文 2023年『歴史群像178 4月号』

桶狭間合戦後、弱体化した今川領には武田信玄が進行し、今川氏真は駿府城から掛川城へと逃れる。西から今川領に進行した徳川家康が、掛川城を攻める状況を推定復元。中央上の掛川城を付城群で囲んだ家康は、5か月かけて開城に追い込んだ。
手前の杉谷城は唯一、全面発掘調査された付城だが、この城を含めた画面下半分の丘陵地は、大半が宅地開発によって平地になっており、古い地図や航空写真から復元した。

874 岩略寺城

戦国時代 考証 加藤理文 2023年 『歴史群像177 2月号

桶狭間合戦後、今川氏から独立してた若き徳川家康(当時は松平姓)が、まだ今川配下だった東三河を攻める際の拠点とした山城。下には東海道が通り、その北側の平地に長沢城があった。長沢城は東名高速などによって遺構が失われているため、江戸時代の古城図から推定復元。遠景の登屋ヶ根城は堀跡などが残り、本多忠勝初陣の伝承がある。

873 北白川城塞群

戦国時代 考証 中西裕樹 2022年『歴史群像176 12月号

将軍山城と呼ばれる城を中心とした山城群で、比叡山経由で京都に入る白鳥越を取り込んでいる。細川氏や六角氏も利用したが、イラストは永禄元年(1558)、将軍足利義輝が三好長慶に支配されていた京都を奪還しようと城に入った状況を想定。
義輝の「御殿」も建てられたと記録される。
遠景には洛東~白河の風景を推定復元した。

2072 松尾山城

安土桃山時代 2022年 考証 中井均・関ヶ原町 岐阜県蔵

関ヶ原の南西部にある山城。
戦国期から存在したが、関ヶ原合戦で西軍の陣として使われたことで知られる。
もともと総大将の毛利氏が入る予定だったが、最終的に小早川氏が陣を構えた。
主な曲輪は土塁で囲まれており、左の煙硝蔵曲輪には、半地下式の櫓があったと推定されている。

2071 舟形山城

戦国能代 2022年 考証 豊橋市教育委員会 豊橋市蔵

三河と遠江の国境近くに築かれた山城で、今川義元の傘下になった時期もあったが、後に徳川家康の下に入る。
尾根筋に曲輪を築き、前後を掘り切りで遮断する典型的な山城。山腹には山岳寺院「普門寺」の堂宇が点在し、城のすぐ下には、寺の最初の本堂とされる「元々堂」があった。

2070 岐阜城山上曲輪

安土桃山時代 2022年 考証 中井均・岐阜市文化財保護課 岐阜県蔵

戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤氏の本拠だったが、後に織田信長が攻略し、信長の居城となった。その後も池田輝政や織田秀信などの居城となった。ここでは山上の曲輪群を、織田信長時代を想定して復元。
一ノ門や裏門、天守など、最新の調査成果を反映させている。
金華山と呼ばれる岐阜城の山は、チャートの岩盤が露出する岩山で、天守近くには磐座信仰の権現社もあったと想像されている。

2068 等妙寺旧境内の石垣

室町時代 2022年 考証 鬼北町教育委員会 鬼北町蔵

等妙寺旧境内には、現在も石垣が残されて、史跡を代表する遺構となっており、その構築風景を想像復元した。
石垣は平らに割れる節理の石を用いているが、城石垣も織豊期以前のものは、平らな石を積んだものが全国各地で散見される。
2067で書院を描いた石垣上の平場には、工房の跡も発掘されており、伽藍の建設中に釘などの鉄製品を作っていたと推定されている。

2067 等妙寺旧境内

室町時代 2022年 考証 鬼北町教育委員会 鬼北町蔵

等妙寺は、愛媛県南予の鬼北町にある寺で、中世には背後の山中に堂宇が点在する山岳寺院だった。その中心部を山の上から見下ろした。
本堂の奥に見える一角は書院造の屋敷が想定されている。権現社、観音堂、滝や池、水閼伽取りの小屋など様々な建物や施設が点在し、僧侶たちが修行生活を送っていた。

872 林城

戦国能代 考証 竹原学 2022年 『 歴史群像 175 10月号』

信濃の名族、小笠原氏が戦国時代に本拠とした。当時は手前の大城と奥の小城の間の谷に平時の館と城下集落があった。
信濃はその後武田氏の配下となるが、本能寺の変の後に起きた天正壬午の乱に乗じて、小笠原氏は信濃を奪還。深志(松本)城を本城としたが、林城も整備したと思われ、その状況を想定復元した。
尾根筋に延々と続く削平地が特徴で、大城、小城ともに主郭は石垣造り。

2069 大威徳寺

室町時代 2022年 考証 下呂教育委員会 下呂市蔵

室町時代から戦国期にかけての山岳寺院で、楼門造りの山門や、三重塔、山王権現社などが立ち並んだと伝えられる。しかし戦国時代の戦火と天正地震によって堂宇の大半が失われ、江戸時代に廃寺となった。
鎌倉・室町時代には、各地に天台宗の山岳寺院が開かれた。山の中腹に削平地が点在するものが多いが、大威徳寺は一か所にまとまっているのが特徴。

871 松山城

安土桃山時代 考証 岡寺良・若杦善満 2022年 『歴史群像174 8月号

福岡県の東部、豊前の山城。現在は埋め立て地に囲まれ、北九州空港に至る工業地帯の一角だが、かつては海と湿地に囲まれた要害の山城だった。
毛利元就が九州攻めの拠点としたほか、豊臣秀吉の九州攻めでも陣とされ、九州平定後は黒田氏や細川氏の支城となった。
戦国後期の畝状竪堀、尾根上に土塁を巡らせた惣構え、石垣と瓦葺き建物など、それぞれの時期の築城がミックスされている。