320 コンブウシムイチャシ

江戸時代 考証 西股総生 2013年 『歴史群像 121』

崖の上を利用するタイプのチャシで、根室半島のチャシの中でも規模が大きい。
以前、チャシは古代から造られたと考えられていたが、現在確認できるチャシの遺構は北海道にしかなく、安土桃山時代から江戸時代にかけてのもの。
シャクシャインの乱など、倭人との抗争の中で生まれたと考えられている。

128 松前城

江戸時代 考証 永田富智 1999年 『歴史群像シリーズ 58 土方歳三』

幕末に造られた最後の日本式築城で、砲台と城の複合施設。
台地先端部を利用する城では、台地続き側の防御を厚くするのが通常だが、松前城では海岸防御が重視されていた。
戊辰戦争で榎本武揚や土方歳三の旧幕府軍に攻撃され、台地側の弱点を突かれて落城した。

842 坂田城

戦国時代 考証 西股総生 2018年  『歴史群像 152

千葉県北部の国人井田氏の居城で、戦国末期には北条氏の配下になった。
舌状台地の先端部を用い、堀切で曲輪を区画した関東の台地上の城の典型例。

817 臼井城

戦国時代 考証 香川元太郎 2017年 ベストパートナー(浜銀総合研究所)

印旛沼の湿地に突き出した、丘陵上の戦国城郭。
北条方の城となっていた時期に、里見氏と上杉謙信の大軍に攻められたが、これを退けたことで名を上げた。
印旛沼周辺には沼を要害として利用した城が多く、261、825の本佐倉城も有名。

809 国府台合戦

戦国時代 考証 香川元太郎 2016年 『戦国王17号、35号』

国府台合戦は、第一次と第二次の2回あり、いずれも戦いの中心は北条氏と里見氏だったようだ。
市川、松戸付近が主戦場となったが、当時の江戸川は利根川の本流で、現在よりはるかに水量が多かった。

800 国府台城

戦国時代 考証 香川元太郎 2017年 ベストパートナー(浜銀総合研究所)

市川市の戦国城郭。戦国時代の関東で特に大規模な戦いだった国府台合戦で、里見氏の援助を得た小弓公方の主城となっていた。
合戦は北条氏が勝利し、北条氏の配下となった千葉氏の城になったと思われる。

825 本佐倉城

戦国時代 考証 香川元太郎 2018年 ベストパートナー(浜銀総合研究所)2022年加筆

千葉氏の城で、のちに北条氏の配下となって大規模化したと思われる。
261で描いたが、その後に発掘された部分(本丸の虎口や建物跡など)を反映させて描いた。
主な空堀がいずれも通路となって、その入り口に門があったことも明らかになっている。

261 本佐倉城

戦国時代 考証 樋口隆晴 2004年 『歴史群像 65』

千葉氏の城で、北条氏によって改修されたと思われる戦国城郭。
作画後の調査で明らかになった部分は、825のイラストに反映させた。
関東の低地には、湿地や湖を天然の堀とし、水運にも利用した城が多い。

841 寺山館

戦国時代 考証 三島正之 2018年 『歴史群像 151 』

寺山館(てらやまだて)は、茨城の戦国大名佐竹氏が、会津進出の拠点として白河に築いた大規模な山城。
イラストは、反佐竹連合軍の攻撃を受けている場面を想定。
東北地方では、「館」(たて)の名がついた城が多く「城」と同等の意味だったと思われる。

681 摺上原合戦

戦国時代 考証 香川元太郎 1995年 世界文化社『ビッグマンスペシャル 伊達政宗』

摺上原(すりあげはら)合戦は、伊達氏と蘆名氏が戦った、戦国時代の東北で最大規模の合戦。
蘆名氏は敗走し、伊達政宗が東北一の戦国大名の地位を確立した。
右上は磐梯山。左下が猪苗代湖。

509 阿津賀志山合戦

鎌倉時代 考証 香川元太郎 2005年 学研『パノラマ絵地図3鎌倉~室町時代』

阿津賀志山(あつかしやま 厚樫山)は、福島県と宮城県との県境に近く、奥州街道が谷にさしかかる場所。
鎌倉時代初期、幕府を開いた源頼朝の軍と、平泉を中心に栄華を誇った藤原氏がここで激突した。
藤原氏方は三重の空堀による長塁を築いて幕府軍を迎えうったが、破られて敗走した。

436 第2次白河口の戦い

江戸時代 考証 井上幸雄 1994年 『歴史群像シリーズ 39 会津戦争』

戊辰戦争の一つ、白河口の戦いの戦場を南から鳥瞰。
中央上の町が、白河小峰城の城下町。
新政府軍と奥羽列藩同盟軍との間で、小峰城を奪い合ったが、最後は新政府軍が優位に立って城を確保した。

275 久川城

戦国時代 考証 西股総生 2005年 『歴史群像 69』

南会津を代表する戦国の山城。
国人領主河原田氏の城で、伊達政宗の攻撃を退けたが、その後、秀吉の奥羽仕置で蒲生領となった。
山裾の虎口などは蒲生時代の整備と思われる。

152 会津若松城

江戸時代(戊辰戦争時) 考証 石田明夫 2013年 『歴史群像 119』

「鶴ヶ城」とも呼ばれる。
江戸初期には上杉氏、蒲生氏、加藤氏など何度も城主が交代した。
その後入城した保科氏(後に松平氏)の時代にも城は改修され、 建物には凍結対策に開発された赤瓦が使われた。
イラストは122と同じアングルから、戊辰戦争で新政府軍が城下に攻め込んだ時を想定。
瓦の赤色を強調し、地形の高低からの推定で、堀の一部を空堀に描いている。

126 会津若松城 天守断面

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社『日本の城』

内部の明確な史料は残されていないが、一定の逓減率を持つ外観から、内部は母屋の部屋を入側が取り囲む構造だったと推定される。
特徴的なのは天守が天守台いっぱいに建てられず、塀で囲まれていることで、初期の天守形態の一つと考えられる。
石蔵は上下2段になっていたようで、下段には井戸があった。
江戸初期に加藤氏が改修したが、その時は通常の瓦が使われたと推定。