
十三湊(とさみなと)は、十三湖の一角にあった城郭都市。
室町時代には津軽を代表する交易港で、安東氏の本拠として栄えた。
砂州の先端を利用していたが、現在は水路の位置が変わり、当時の地形は失われている。
十三湊(とさみなと)は、十三湖の一角にあった城郭都市。
室町時代には津軽を代表する交易港で、安東氏の本拠として栄えた。
砂州の先端を利用していたが、現在は水路の位置が変わり、当時の地形は失われている。
天守(御三階櫓)を始め、三階櫓や櫓門が複数残る。
建物の屋根には、凍結による破損対策として銅瓦を用いている。
台地を利用した立地で、土塁を多用しているのは、関東・東北の城によく見られる形。
主要部には石垣もあり、現在は桜の名所として有名。
ヨーロッパ式の星形築城だが、この形は城壁を攻める敵に側面攻撃をかけるため生まれたもので、日本の城の横矢掛りと同じ発想。
星形城郭の完成時期は日本の近世城郭の完成と同時期で、大砲の性能が上がった幕末期には、最新鋭とは言い難い築城法だった。
南西(上)が函館市街と函館山で、北の海岸には弁天崎台場も築かれた。
五稜郭の建物は平面図と古写真から描いたが、その後現地では函館奉行所が赤瓦で復元され、イラストもその考証に準じて、データ上で赤瓦に修正している。
(下の画像はイラスト原画。黒い瓦で描いた。)
「チャシ」は北海道のアイヌが造った城で、儀式用施設としての側面もあったとされ、謎が多い遺構。
幾つかの築城パターンがあり、このチャシのように、丘の頂上を利用するタイプも多い。
手前は熊祭り用に飼育する熊の檻。
崖の上を利用するタイプのチャシで、根室半島のチャシの中でも規模が大きい。
以前、チャシは古代から造られたと考えられていたが、現在確認できるチャシの遺構は北海道にしかなく、安土桃山時代から江戸時代にかけてのもの。
シャクシャインの乱など、倭人との抗争の中で生まれたと考えられている。
幕末に造られた最後の日本式築城で、砲台と城の複合施設。
台地先端部を利用する城では、台地続き側の防御を厚くするのが通常だが、松前城では海岸防御が重視されていた。
戊辰戦争で榎本武揚や土方歳三の旧幕府軍に攻撃され、台地側の弱点を突かれて落城した。
千葉県北部の国人井田氏の居城で、戦国末期には北条氏の配下になった。
舌状台地の先端部を用い、堀切で曲輪を区画した関東の台地上の城の典型例。
印旛沼の湿地に突き出した、丘陵上の戦国城郭。
北条方の城となっていた時期に、里見氏と上杉謙信の大軍に攻められたが、これを退けたことで名を上げた。
印旛沼周辺には沼を要害として利用した城が多く、261、825の本佐倉城も有名。
国府台合戦は、第一次と第二次の2回あり、いずれも戦いの中心は北条氏と里見氏だったようだ。
市川、松戸付近が主戦場となったが、当時の江戸川は利根川の本流で、現在よりはるかに水量が多かった。
市川市の戦国城郭。戦国時代の関東で特に大規模な戦いだった国府台合戦で、里見氏の援助を得た小弓公方の主城となっていた。
合戦は北条氏が勝利し、北条氏の配下となった千葉氏の城になったと思われる。
千葉氏の城で、のちに北条氏の配下となって大規模化したと思われる。
261で描いたが、その後に発掘された部分(本丸の虎口や建物跡など)を反映させて描いた。
主な空堀がいずれも通路となって、その入り口に門があったことも明らかになっている。
千葉氏の城で、北条氏によって改修されたと思われる戦国城郭。
作画後の調査で明らかになった部分は、825のイラストに反映させた。
関東の低地には、湿地や湖を天然の堀とし、水運にも利用した城が多い。
寺山館(てらやまだて)は、茨城の戦国大名佐竹氏が、会津進出の拠点として白河に築いた大規模な山城。
イラストは、反佐竹連合軍の攻撃を受けている場面を想定。
東北地方では、「館」(たて)の名がついた城が多く「城」と同等の意味だったと思われる。
摺上原(すりあげはら)合戦は、伊達氏と蘆名氏が戦った、戦国時代の東北で最大規模の合戦。
蘆名氏は敗走し、伊達政宗が東北一の戦国大名の地位を確立した。
右上は磐梯山。左下が猪苗代湖。
阿津賀志山(あつかしやま 厚樫山)は、福島県と宮城県との県境に近く、奥州街道が谷にさしかかる場所。
鎌倉時代初期、幕府を開いた源頼朝の軍と、平泉を中心に栄華を誇った藤原氏がここで激突した。
藤原氏方は三重の空堀による長塁を築いて幕府軍を迎えうったが、破られて敗走した。