
南会津を代表する戦国の山城。
国人領主河原田氏の城で、伊達政宗の攻撃を退けたが、その後、秀吉の奥羽仕置で蒲生領となった。
山裾の虎口などは蒲生時代の整備と思われる。
南会津を代表する戦国の山城。
国人領主河原田氏の城で、伊達政宗の攻撃を退けたが、その後、秀吉の奥羽仕置で蒲生領となった。
山裾の虎口などは蒲生時代の整備と思われる。
「鶴ヶ城」とも呼ばれる。
江戸初期には上杉氏、蒲生氏、加藤氏など何度も城主が交代した。
その後入城した保科氏(後に松平氏)の時代にも城は改修され、 建物には凍結対策に開発された赤瓦が使われた。
イラストは122と同じアングルから、戊辰戦争で新政府軍が城下に攻め込んだ時を想定。
瓦の赤色を強調し、地形の高低からの推定で、堀の一部を空堀に描いている。
内部の明確な史料は残されていないが、一定の逓減率を持つ外観から、内部は母屋の部屋を入側が取り囲む構造だったと推定される。
特徴的なのは天守が天守台いっぱいに建てられず、塀で囲まれていることで、初期の天守形態の一つと考えられる。
石蔵は上下2段になっていたようで、下段には井戸があった。
江戸初期に加藤氏が改修したが、その時は通常の瓦が使われたと推定。
本丸御殿の一画に設けられた三階建ての楼閣。城下の寺に移築されて現存しており、その形によって描いた。
しかし本来は雅亭だったと思われ、壁の造りなどが現在とは異なっていた可能性が高い。
「鶴ヶ城」の名でも知られる、東北を代表する城。
ほぼ平城と言えるが、台地の先端部を利用しており、イラストでは右上が高い。
馬出状に曲輪を重ねる縄張が特徴で、横矢をかけるためにギザギザを付けた折塀も面白い。
房総半島の江見に城址が残る山城。文献記録のない謎の城で、里見水軍の主力を担った正木氏が水軍基地として築いたと推定。房総の山城の特徴である、切り立った切岸に囲まれている。