
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、中世の熊野に存在した独特の信仰。
余命の短いことを悟った人が、南の海上にあると信じられた観音の浄土「補陀落山」に向けて舟を出した。
イラストには、千手観音のイメージを加えた。

補陀落渡海(ふだらくとかい)は、中世の熊野に存在した独特の信仰。
余命の短いことを悟った人が、南の海上にあると信じられた観音の浄土「補陀落山」に向けて舟を出した。
イラストには、千手観音のイメージを加えた。

真言宗寺院の根来寺(ねごろでら)を中心とした門前町を描いた。
町は谷地形に展開しており、戦国時代には防備を固めた寺内町となっていた。
寺には現在、国内で最も古い大塔がある。

和歌山城は、御三家の一つ、紀州徳川家の城。
天守曲輪は、天守と櫓で中庭を囲む連立式天守に、腰曲輪も櫓で固めた厳重な構え。
左手前の門は裏口で、水の手に通じている。

現在は建物もなく目立たない本丸だが、かつては御殿が立ち並んだ。
平面図から建物を復元。

丘を利用した典型的な平山城だが、本丸(左)と天守曲輪(右)が並び立つ構成が特徴。
天守曲輪には、珍しい緑泥石片岩の石垣が見られる。
大名の城の中でも特に充実した御殿を持っていた。

石槨の壁画で知られる終末期古墳。
壁画には、四神・日月・人物像などが描かれている。
イラスト中に集う人物も、壁画の人物に準じた服装で描いた。

建立時の大仏殿を正面から見る。
このイラストでは、建物のディテールを、当時の大仏殿を描いた唯一の絵画史料「信貴山縁起絵巻」に拠って描いてみた。

大仏と大仏殿は、現在まで何度か被災や改築などを経ている。
イラストは建立された当時の大仏殿を描いており、現在の大仏殿より横幅が広かった。

彫刻家、戸津圭之介氏による鋳造過程の推定。
まず型となる仏像を粘土で作り、漆喰などで完成させる。
内部は空洞で、柱組みで支える。

内型となる仏像が完成したら、外型を作る。
隙間が均等に空くよう、支え(型持ち)を挟みながら、外型を配置する。

盛土の上に炉やたたら(ふいご)を設置し、銅を溶かして1000度くらいの温度にし、樋を使って型の隙間に流し込む。

鋳造が終わったら、上段から順に盛土と外型を取り除く。
銅が流れ込まなかった隙間や、型持ちの穴に銅を流し込む「鋳加え」を行う。

本体の鋳造後、台座(蓮華座)の鋳造を行ったと推定。
台座は、現在も奈良時代のものが最も多く残る。

塗金を行う。
金と水銀を混ぜたアマルガムを塗り、熱して水銀を蒸発させたと推定。
体への負担が大きい技法だった。

大仏鋳造の様子を推定復元。
型の間に銅を流し込む作業は、下から何段階にも分けて行われ、盛土を何度も積み上げながら作業が進められた。
この段階では露天状態なので、仮設の覆屋もあったと推定。

国家的一大事業だった東大寺建立で、最も大きなイベントとなった大仏開眼供養を想像復元。
インドから招いたボジセンナが大仏に目を書き入れる。
その筆に結ばれた長い糸を、多数の要人が握ってその瞬間を共有した。

法隆寺が現在の位置に建てられた当時の様子を再現。
金堂、五重塔とも、現在は一階にひさしがあるが、当初はなかったと考えられる。

現存する最古の五重塔内部。
中心の柱は頂上部のみで他の柱組みと繋がっており、途中部分は吹き抜け空間に独立している。
心柱の地下には仏舎利容器が収められている。

終末期の小規模な円墳。
壁画の発見で一躍脚光を浴びた。
石槨を収めた後の儀式をイメージ復元

板蓋宮と呼ばれた飛鳥京と、その周辺を南から描いた。
右下は石舞台古墳。
山田寺などの古代寺院も見える。
上部の平地には、のちに藤原京が作られるが、この一帯はあまり都には向かない低湿地だった。