
現存する天守を描いたものだが、天守入り口の施設や木などによって、実際の写真では写らない部分を見せている。手前の付櫓は、天守母屋から斜めに突き出しており、屋根の納め方も変則的になっている。
現存する天守を描いたものだが、天守入り口の施設や木などによって、実際の写真では写らない部分を見せている。手前の付櫓は、天守母屋から斜めに突き出しており、屋根の納め方も変則的になっている。
奥三河の戦国城郭で、武田氏の前線基地。
丘の斜面全域に、隙間なく横堀が巡らされている。
徳川家康の攻撃に備えて、城の戦闘力を高めようと、堀を掘りまくってこのような形になったと推定。
奥三河の戦国城郭で、川の合流点を利用している。
城主の奥平氏は徳川方に付いたが、武田勝頼に攻められて激しい籠城戦を行い、
これが長篠合戦の引き金となった。
イラストは籠城戦を想定している。
桶狭間の合戦で戦場になった地域の全体像。
イラスト下は海で、現在は陸になっているが、当時は深く内湾が入り込んでいた。
桶狭間周辺に造られた信長方の砦。
イラスト292では中央下にある。
桶狭間の戦い直前に、丸根砦とともに今川方によって落城。
この勝利に祝杯を上げていた今川軍を、信長が急襲したとされる。
桶狭間城郭群のひとつで、信長方の砦。
イラスト292では一番右下にある。
勝幡城(しょばたじょう)は、方形館タイプの平城。
湿地を利用した堀で防備を固めていた。
織田信長の父、信秀の居城で、信長もこの城で生まれたと考えられる。
美濃攻略を目指した信長が、清洲城の後に本城とした。
その当時を推定復元。
最近、本丸周辺の発掘調査が進み、推定復元の形も年々変化している。
現在の名古屋城二の丸にあった。
台地の先端を利用し、北は御深井と呼ばれる湿地。
織田家の館を中心に、家臣団の方形館が取り囲んでいたと推定。
左上の遠景には清洲の街も描いた。
織田信長の初期の本城。
名古屋城清洲櫓の調査を参考に、廃城前(桃山末期)の清洲城天守をイメージした。
戦災で焼失するまで残っていたため、中の様子が分かる史料も多い。
地下には井戸があり、一階からも水が汲める仕組みになっていた。
隠し狭間や小天守との間の剣塀など、戦闘のための工夫もある。
名古屋城の西の端に現存する櫓で、清須城天守を移築したとの伝承から名づけられた。
全体の形は近世的だが、解体修理では転用材も見つかった。
清須城天守の材も再利用されたと思われる。
清州城天守の想像図は199
天守の内部を「金城温故録」などの史料から復元。
名古屋城の本丸は、将軍が上洛する際の宿所で、天守内にも、通常は使われない将軍専用の階段があった。
最上階には遠眼鏡が備えられていた。
城大工の中井家に残された平面図には、小天守が現在と異なる配置になっているものがあり、これをもとに描いた。
現在の天守石垣西面には出入り口をふさいだ跡があり、実際にある程度まで建設が進んだ後、計画が変更されて現在の形になったと考えられる。
江戸時代初期に、大阪の豊臣氏に対抗する城として、幕府の命による天下普請で築城された。
台地の先端部を利用しており、二の丸は戦国時代に信長の居城だった那古屋城の跡地。
北の湿地「御深井」は広い水堀となった。