2033 犬山城

江戸時代 2018年 考証 香川元太郎 個人蔵(チャリティ展)

現存する天守を描いたものだが、天守入り口の施設や木などによって、実際の写真では写らない部分を見せている。手前の付櫓は、天守母屋から斜めに突き出しており、屋根の納め方も変則的になっている。

802  古宮城

戦国時代 考証 西股総生  2017年 『 歴史群像 143  6月号』

奥三河の戦国城郭で、武田氏の前線基地。
丘の斜面全域に、隙間なく横堀が巡らされている。
徳川家康の攻撃に備えて、城の戦闘力を高めようと、堀を掘りまくってこのような形になったと推定。

299  長篠城

戦国時代 考証 中井均  2002年  『 歴史群像 54  8月号』

奥三河の戦国城郭で、川の合流点を利用している。
城主の奥平氏は徳川方に付いたが、武田勝頼に攻められて激しい籠城戦を行い、
これが長篠合戦の引き金となった。
イラストは籠城戦を想定している。

292 桶狭間

戦国時代 考証 高田徹 2008年 『 歴史群像 87 2月号』

桶狭間の合戦で戦場になった地域の全体像。
イラスト下は海で、現在は陸になっているが、当時は深く内湾が入り込んでいた。

291 鷲津砦

戦国時代 考証 高田徹  2008年 『 歴史群像 87  2月号』

桶狭間周辺に造られた信長方の砦。
イラスト292では中央下にある。
桶狭間の戦い直前に、丸根砦とともに今川方によって落城。
この勝利に祝杯を上げていた今川軍を、信長が急襲したとされる。

290 氷上山砦

戦国時代 考証 高田徹  2008年 『 歴史群像 87  2月号』

桶狭間城郭群のひとつで、信長方の砦。
イラスト292では一番右下にある。

284  勝幡城

戦国時代 考証 千田嘉博  1992年 歴史群像シリーズ 27『風雲信長記』

勝幡城(しょばたじょう)は、方形館タイプの平城。
湿地を利用した堀で防備を固めていた。
織田信長の父、信秀の居城で、信長もこの城で生まれたと考えられる。

246  小牧城

安土桃山時代 考証 千田嘉博 2002年 歴史群像シリーズ『 奮闘 前田利家』

美濃攻略を目指した信長が、清洲城の後に本城とした。
その当時を推定復元。
最近、本丸周辺の発掘調査が進み、推定復元の形も年々変化している。

242 那古野城

戦国時代 考証 千田嘉博 2001年 歴史群像シリーズ『激震 織田信長』

現在の名古屋城二の丸にあった。
台地の先端を利用し、北は御深井と呼ばれる湿地。
織田家の館を中心に、家臣団の方形館が取り囲んでいたと推定。
左上の遠景には清洲の街も描いた。

199 清洲城

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

織田信長の初期の本城。
名古屋城清洲櫓の調査を参考に、廃城前(桃山末期)の清洲城天守をイメージした。

180 名古屋城天守

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

戦災で焼失するまで残っていたため、中の様子が分かる史料も多い。
地下には井戸があり、一階からも水が汲める仕組みになっていた。
隠し狭間や小天守との間の剣塀など、戦闘のための工夫もある。

179 名古屋城 清洲櫓

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

名古屋城の西の端に現存する櫓で、清須城天守を移築したとの伝承から名づけられた。
全体の形は近世的だが、解体修理では転用材も見つかった。
清須城天守の材も再利用されたと思われる。
清州城天守の想像図は199

177 名古屋城天守 断面

江戸時代 考証 香川元太郎 2010年

天守の内部を「金城温故録」などの史料から復元。
名古屋城の本丸は、将軍が上洛する際の宿所で、天守内にも、通常は使われない将軍専用の階段があった。
最上階には遠眼鏡が備えられていた。

176 名古屋城 幻の小天守

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

城大工の中井家に残された平面図には、小天守が現在と異なる配置になっているものがあり、これをもとに描いた。
現在の天守石垣西面には出入り口をふさいだ跡があり、実際にある程度まで建設が進んだ後、計画が変更されて現在の形になったと考えられる。

169 名古屋城

江戸時代 考証 香川元太郎  2003年  PHP研究所『名城を歩く』5

江戸時代初期に、大阪の豊臣氏に対抗する城として、幕府の命による天下普請で築城された。
台地の先端部を利用しており、二の丸は戦国時代に信長の居城だった那古屋城の跡地。
北の湿地「御深井」は広い水堀となった。