
熊本県北部の戦国山城。
豊臣政権下、肥後に配された佐々成政に国人たちが反発、「肥後国人一揆」が起こる。
一揆軍は田中城に入り、秀吉方の大軍を相手に籠城した。
下には寄せ手の仕寄も描いている。

熊本県北部の戦国山城。
豊臣政権下、肥後に配された佐々成政に国人たちが反発、「肥後国人一揆」が起こる。
一揆軍は田中城に入り、秀吉方の大軍を相手に籠城した。
下には寄せ手の仕寄も描いている。

熊本城の現存櫓の中で、最も目立つ宇土櫓の内部を見せた。
地上5階、地下1階の大型櫓で、別名「三の天守」と呼ばれた。

熊本城の本丸と天守内部を、北東から見る。
手前は、本丸北の一角にある通路で、狭い地下道を経て本丸北の空堀に抜けることができる。

加藤清正が築城した当時を推定復元。
詳細は不明だが、築城時の縄張りや建物は、後の細川時代とは異なる部分があったと思われる。

南東から見た天守と小天守の断面。
いずれも石垣内の地下室(石蔵)がある。
小天守地下には井戸とかまどが設けられていた。

幕末期の熊本城。
熊本城には、清正公石垣と呼ばれる雄大な石垣が築かれ、天守や小天守以外に五階櫓が5つも立ち並んでいた。
加藤氏が改易となった後は細川氏が入り、大規模な改修を行って、西大手門などを新設したと思われる。

長崎の出島、江戸中期から後期頃を想定。
出島は江戸時代の間、オランダや清との貿易に開かれた、日本唯一の海外への窓だった。

島原の乱図屏風などを資料に、攻防の様子をイメージ。
板塀は、船板を利用したものもあったとの記録から描いている。

戦国時代の城で、江戸時代には廃城となっていたが、島原の乱の際、一揆軍が新たに整備して立て籠もった。
天守的な大櫓や、瓦葺の建物は想像で描いている。

弥生時代に多数造られた環濠集落の遺跡の中でも、最も大規模なもの。
時代によって変遷がある。

基肄城は、大宰府の背後を守る古代山城。
大野城とともに、朝鮮式の築城法を導入して造られたことが「日本書紀」にも記されている。
尾根筋に版築土塁の城壁を築き、小川などのある谷には石垣を築くのが古代山城の典型的な形。
古代の大宰府は329など福岡県のページに掲載。

太宰府(福岡県)の背後に築かれた古代山城。
谷の入り口の城門を推定復原。
石垣や、石垣の下から川の水を通すための水路は現在も残っている。

肥前名護屋城は、豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵の、日本での本陣となった城。
周辺には、出兵する大名たちがそれぞれに陣城を設け、一大軍事基地が出現した。
半島部を南東から見る。

豊臣秀吉が、朝鮮を攻めるための本陣として築城した。
南西から中心部を見る。
建物は「肥前名護屋城屏風」からの推定復元。
147でも別角度から描いている。

日向には「高城」が複数存在し、区別のために「新納院・高城」とも呼ばれる。
台地先端の要害を利用した城。
大友宗麟と島津氏が激突した第一次高城川(耳川)合戦と、豊臣秀長と島津氏が戦った第二次高城川合戦で、主戦場となる。
いずれも、高城の籠城戦に野戦が加わって大合戦となった。