
中世の鎌倉を南から見る。
鎌倉を囲む山上には切岸による防衛線が巡らされ、「切り通し」と呼ばれる虎口が設けられた。
海岸線は今よりも深く入り込み、鶴岡八幡宮の一の鳥居は海岸に面していた。
東の和賀江島は人工の堤防。

中世の鎌倉を南から見る。
鎌倉を囲む山上には切岸による防衛線が巡らされ、「切り通し」と呼ばれる虎口が設けられた。
海岸線は今よりも深く入り込み、鶴岡八幡宮の一の鳥居は海岸に面していた。
東の和賀江島は人工の堤防。

横浜市の大塚遺跡をモデルにした、環濠集落の断面。
柵は、平坦部の縁ではなく、堀の外の土塁上に立てられており、柵を越えようとする敵を狙い撃つ戦い方が想定される。

横浜市にある弥生時代の環濠集落で、イラスト上部の歳勝土遺跡は、多数の墓が並んでいる。
大規模発掘調査で、環濠や柵の跡などが発見された。
現在は史跡公園となり、復元された住居なども見学できる。

北条市の水軍の拠点のひとつ。
293と逆方向から見て、左下の外郭線ラインも異なる考証で描いている。
戦国期を含む中世には、川の河口部が広い潟湖状になり、港として使われる例が多い。

三浦半島先端部の城で、 奥に見えるのは城ヶ島。
三浦氏が築城したものを、北条氏が配下に収めて改修したと推定される。
北条氏の水軍の拠点で、しばしば安房の里見氏に攻められている。

石垣山城は、豊臣秀吉が小田原攻めのために築いた大規模な陣城。
イラストは城が完成した時を想定。
小田原攻めの際には211のように建設途中だったかもしれないが、その後も工事が続けられて、天守も完成したと推定した。

豊臣秀吉が小田原攻めの拠点として築城。
石垣山一夜城とも呼ばれる。
小田原開城の際には、まだ天守や櫓は完成していなかったとの推定で描いた。
秀吉の城の場合、通常は瓦葺きに推定する塀なども、板葺きと想定している。

豊臣秀吉が小田原攻めの拠点とした石垣山城から望む小田原城。
城址からは小田原城がギリギリ見える程度で、小田原からも石垣山城の低い部分(曲輪の裾など)は見えない。
あらかじめ築城を進め、小田原側の木を伐採すれば、一夜で城が建ったように見えたかもしれない。

秀吉による小田原攻めの本陣。
手前は石敷きの「太閤道」。
現地には天守台跡をはじめ、大規模な石垣が崩壊した状況が残されている。

江戸時代の小田原城で、北条氏の小田原城跡を利用して築城された。
江戸時代にも、背後の山に戦国時代の空堀が多数残っていたことが、幕末期の絵図からわかる。
現在、イラスト上部の山は鉄道工事によって削られている。

江戸時代の天守は木造の模型が残されており、それらから復元。
現在も、概ねこれと同じ形の天守が復元されている。

小田原城では障子堀と呼ばれる独特の堀が多用された。
発掘で検出された堀をモデルにしており、櫓や塀などは推定で加えた。

北西から見た戦国期の小田原城。北条氏の本拠地で、上杉謙信、武田信玄の攻撃もはね返した。イラストは上杉謙信の攻撃を想定。
小田原城は大城郭として知られるが、巨大な惣構えは秀吉の小田原攻め間近に構築されたもので、この時はまだ造られていない。
2024年、近年の研究成果を反映させるよう修正。

東京を代表する戦国の城。
北条氏が武蔵地方の拠点としていた。
空堀と土塁を組み合わせ、角馬出と横矢がかりを多用する北条流縄張りの例。

中央の館を中心に発達した、戦国時代の平城の典型例。
川と低湿地を利用した水堀で、防備を固めていた。
第一次国府台合戦で北条方の出撃基地となり、その際の状況を想定している。