
江戸時代初期の状況を絵図と文献から推定した。
天守台は造られたが、天守は建てられなかった。
しかし4基の3階櫓が本丸の四方にそびえ、本丸御殿にも3階楼があったという。
のちに本丸御殿は撤去され、三の丸内に堀を巡らせた御殿が整備された。
西の「樹木屋敷」には宮本武蔵が設計した庭があったとされ、旧陸軍の地図にも池が描かれている。
江戸時代初期の状況を絵図と文献から推定した。
天守台は造られたが、天守は建てられなかった。
しかし4基の3階櫓が本丸の四方にそびえ、本丸御殿にも3階楼があったという。
のちに本丸御殿は撤去され、三の丸内に堀を巡らせた御殿が整備された。
西の「樹木屋敷」には宮本武蔵が設計した庭があったとされ、旧陸軍の地図にも池が描かれている。
幕末の砲台だが、それまでの砲台とは異なり、石造りの塔に設置された。
「マルテロ塔」など、同時期のヨーロッパの小型要塞に似たものがあり、これらに倣ったと思われる。稜堡状の外郭もあった。
幕府の命によって造られた天下普請の城。
縄張りは藤堂高虎。
名築城家と言われた高虎は、幕府の城でも度々縄張りを担当しており、特に篠山城の築城で近世城郭の典型的なパターンを完成させたと思われる。
「天空の城」として有名。
豊臣政権時代に赤松広秀が完成させ、江戸時代初期に廃城になる。
総石垣で完成度の高い織豊城郭。建物は推定で描いた。
姫路城の線画イラスト。
天守へのルートは、小さい門が連続する極めて堅固な防御プラン。
左下の「ほの門」から、西小天守地下の「水六門」まで、合計7つの門がある。
江戸時代の姫路城総構えの全体像。
内堀から中堀、外堀へと、堀が渦巻き状に伸びる構成となっていることから、渦郭式縄張りとの呼び方もある。
40でも同じ題材を描いている。
西の丸や三の丸の御殿も完成した状況。
平成に入ってから、江戸中期(1700年前後)の建物配置を記した平面図が発見され、当時の御殿配置などが分かるようになった。
菱の門から天守に向かうルートで5番めの門。
櫓の地下をL字型に折れながら潜り抜ける特殊な構造の門。
大天守内でも特に3階は天井が高い。
高い窓を利用するための石打棚がある他、屋根裏を利用した部屋が周囲を巡る立体的な構造。
場内に現存する門の中でも、二階造りの渡櫓門は唯一。
外見では隣の渡櫓と繋がっているが、内部は連続しない。
西から見て、小天守を取り除いてその地下を見せている。
連立天守の渡櫓の下にある水五の門を潜ると、小さな枡形空間がある。
西小天守の地下の水六門を入り、建物内を通ってやっと中庭に出る。
江戸時代の姫路城には、城下町を取り囲む惣構えがあった。
その規模は江戸城に次ぐもので、それぞれの虎口は枡形門を備えていた。
48も同じ題材を描いたもの。
現存する天守は池田輝政によって造られたもので、当時の様子を想定した。
後に建物が建ち並ぶ西の丸(左)は、当時の状況は不明。
姫路城の内堀に囲まれた城の本体部分。
37のイラストと同じ江戸中期の史料を用い、角度を変えて描いた。
建物が現存しれているのは、丘を利用した部分(イラストでは上半分)だけだが、それでも現存建物の数は、他の城に比べて群を抜いている。
大天守と3つの小天守を渡り櫓で結ぶ構成は「連立式天守」と呼ばれる。
中庭には2階建ての台所もあり、その構造は極めて複雑。
解体修理報告書と現地取材を資料とした。
香川の城イラストの中でも、最も制作に時間がかかった。