
今川氏旗本の久野氏が築城したとされ、徳川家康政権下では遠江の拠点として松下氏が入城、城を整備した。その後、再び久野氏などが入城するが、正保元年に廃城となる。
池と川、湿地に突き出た丘陵の城で、丘続きの北側を大堀切で断ち、大規模な横堀などで防御する。発掘調査などで搦手門は確認されているが、大手口が不明。ここでは湊が大手口にあたるとの想定によって描いた。
今川氏旗本の久野氏が築城したとされ、徳川家康政権下では遠江の拠点として松下氏が入城、城を整備した。その後、再び久野氏などが入城するが、正保元年に廃城となる。
池と川、湿地に突き出た丘陵の城で、丘続きの北側を大堀切で断ち、大規模な横堀などで防御する。発掘調査などで搦手門は確認されているが、大手口が不明。ここでは湊が大手口にあたるとの想定によって描いた。
桶狭間合戦後、弱体化した今川領には武田信玄が進行し、今川氏真は駿府城から掛川城へと逃れる。西から今川領に進行した徳川家康が、掛川城を攻める状況を推定復元。中央上の掛川城を付城群で囲んだ家康は、5か月かけて開城に追い込んだ。
手前の杉谷城は唯一、全面発掘調査された付城だが、この城を含めた画面下半分の丘陵地は、大半が宅地開発によって平地になっており、古い地図や航空写真から復元した。
今川氏の詰め城で、 右上に見えるのが今川館(その跡地は、のちに駿府城となる)。
規模は大きいが、比較的単純な造りのオーソドックスな山城。
今川義元が討たれたのち、今川氏真が武田氏の進行に備えて兵を配している設定で描いた。
馬伏塚城(まむしづかじょう)は、現在の袋井市にあった平城。徳川家康が出撃基地として用い、特に高天神城攻めで活躍したと推定される。
現在は内陸だが、戦国期にはラグーンが深く伸びて城に達していた。遠江(静岡県西部)の沿岸には多数のラグーンが発達し、左上遠方の横須賀城や、高天神城もラグーンを利用した水運の基地となっていた。
静岡市の西部に遺構がある山城。元は今川氏の城だが、武田氏が駿河に侵攻した際、前線の拠点として改修した。二重の横堀や丸馬出など、発達した武田流の築城術を駆使した城とされる。
藤枝市の山城で、駿河の朝比奈氏の詰城とされる。現地で城址とされている場所は、陣所跡の可能性はあるが城跡として不明瞭。イラスト化したのは、それとは別の尾根の先端部で、堀切や虎口跡が明瞭に残されている。
地元の城郭研究家、関口氏の研究で認知された城址で、関口氏の案内で現地調査して描いた。
守護大名今川氏の跡目争い「花倉の乱」の舞台として知られる山城。玄広恵探が篭った花倉城の籠城戦が、乱の最後の戦いとなった。これに勝利して恵探を滅ぼした今川義元は、大大名に成長する地盤を固めた。
諏訪原城は、牧之原台地の一画を利用して築かれた 武田勝頼の前線基地。その後、徳川家康が奪取し、牧野城と名付けて改修を施した。
796と同じアングルから見ているが、2018年までの調査を反映させて、牧野城の最後の姿を推定した。
羽柴(豊臣)秀吉による小田原攻めの際、北条方の最前線基地として、東海道を塞ぐように築城された。
障子堀が多用され、北条流築城の粋を集めた城だったが、豊臣方は圧倒的な大軍で、激戦の末1日で落城した。
徳川家康が隠居城として築いた。
四角い縄張りの平城で、近世城郭の完成形と言える。
天守の大きさも屈指の規模だった。
牧ノ原台地上にある戦国城郭。
武田勝頼の前線基地だったが、長篠合戦の後、徳川家康が攻め落とす。
徳川氏のもとで牧野城と名を変え、外郭の曲輪等も増設された。
イラストは徳川期を想定。
815では逆のアングルから見ている。
諏訪原城は牧之原台地の縁に武田氏が築城した。
東の斜面から見ると山城だが、このように西の台地側から見ると平城的。
遠景に大井川を入れて描いた。
徳川氏による増設が完成し、家康が見分に訪れた状況を想定。
発掘調査で、大規模な三日月堀も徳川時代の工事によるものと推定された。
武田勝頼が遠江進行の前線基地として築城。
のちに徳川氏が攻め落とし、牧之原城と名付けて改修した。
イラストは武田時代を想定した復元。
その後の発掘調査で、大型の丸馬出しは徳川氏の構築と判断されたが、武田時代から馬出が存在した可能性もある。
北条氏の水軍の根拠地。
下田港を見下ろす山の上に造られている。
畝堀(障子堀)を備えた長い横堀があり、北条氏の発達した城造りを見ることができる。
今川氏配下の城だったが、のちに武田氏の城となり、武田の重臣山県昌景も城主となった。
武田氏が築いた山城の傑作とされるが、丸馬出しは、徳川氏の増設との説もある。