677 南征

2世紀 考証 香川元太郎 1994年 世界文化社『ビッグマンスペシャル 諸葛孔明』

中国の三国時代、蜀南部の武将たちと諸葛孔明のイメージ。
蜀では劉備の死後、その子劉禅が帝位に付き、諸葛亮(孔明)が軍の中心を担う。
国の南部で起きた反乱を納めたのが「南征」で、この後、孔明の戦略は魏との対決「北伐」に向かう。

672 ボルテ奪還戦

12世紀 モンゴル 考証 香川元太郎 1997年『歴史群像シリーズ 25 チンギス・ハーン上巻』

モンゴルでの戦いをイメージ復元。
若き日のチンギス・ハーンはテムジンと呼ばれ、将来を嘱望される武将だったという。
その妻ボルテがメルキト族に拉致される事件が起きるが、テムジンは有力者の協力も得てメルキト族を撃破し、妻も奪還して名を上げた。

661 紫禁城

明 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社『中国五千年6』

元・明・清王朝の中国の王宮で、現在の北京市内。
現存するのは清時代の建物で、故宮博物院等として、中国のシンボルとなっている。
かつては、この外側を取り囲む皇城もあった。

660 蓬莱水城

14世紀 中国山東省 考証 来村多加史 1999年 学研『戦略戦術兵器事典 中国中世・近代編』

明の時代に、山東半島に築かれた水軍基地で、主に倭寇の侵入に備える目的で築かれた。
明代の築城では、城壁も版築に変わって、瓦の一種である磚(せん)や石が使われるようになっていた。

659 長安 西市

唐時代  中国 監修 妹尾達彦 1992年 『歴史群像 4 12月号』

唐の都、長安には東西2箇所に市が設けられ、西の市は民間の商人による市場として特に賑わった。
長安はシルクロードの終着点で、西方からの品々と旅人が集まる国際都市だった。

658 洛陽

1世紀 中国河南省 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社『中国五千年』

古代の中国で、何度も首都となった伝統の都。
イラストは後漢時代を想定している。
北宮、南宮の2つの宮殿を中心に、庭、廟、武器庫などがあった。
後の魏の時代には邪馬台国の使者も訪れたと思われる。

657 平壌

612年 北朝鮮 考証 香川元太郎 1999年 学研『戦略戦術兵器事典 中国中世・近代編』

平壌(ピョンヤン)は高句麗の都だった。
中国の隋は、高句麗をたびたび攻めたが失敗し、それが隋の滅亡を加速させた。
古代の朝鮮半島では中国の都城に似た城もあったが、右上に見えるような、山を利用した独特の城も発達。
その技術は百済を通じて古代日本にも導入された。

656 邯鄲城

戦国時代 監修 来村多加史 1995年『歴史群像シリーズ 44秦始皇帝』

「邯鄲の夢(枕)」の故事で知られる古代中国の城郭都市。
中国の戦国時代、趙の都として栄えたが、長平の戦いの後、秦が趙へ侵攻、ついに邯鄲も落城する。
秦に包囲された状況を想定して描いた。

655 咸陽(かんよう)

BC3世紀 中国陝西省 監修 来村多加史 1995年『歴史群像シリーズ 44秦始皇帝』

中国古代の秦王朝の都、咸陽の想像図。
咸陽では、大規模な宮殿遺構が発見されている。
その一方、古代中国の都につきものの城壁遺構は発見されず、全容はまだ謎の部分が多い。

654 長安

7世紀 中国中国陝西省 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社『中国五千年』

長安は、洛陽と同じく、古代中国で何度も都とされた。
イラストでは長安が最も栄えた唐の時代を想定。
古代日本の都だった平城京や平安京なども、長安に倣ってプランニングされた。

649 鄱陽湖の戦い

1363年 考証 来村多加史 2000年『handbook戦略戦術兵器事典中国編』

中国の元王朝末期、白蓮教徒による反乱軍(紅巾軍)の挙兵に端を発し、有力武将たちも挙兵して、国は内乱状態となる。
鄱陽湖(はようこ)は江州の南にある湖。
ここでの水軍戦で陳友諒を破った朱元璋は勢力を拡大、大都を占領して明の初代皇帝となった。

647 アユタヤの軍象

15世紀頃 考証 香川元太郎 1993年 『歴史群像 8 8月号』

アユタヤは、日本では室町時代から江戸中期頃に存在し、タイ中部を中心に栄えた王朝。
象を用いた軍もあったという。

644 中国戦国時代の宮廷

春秋戦国時代 考証 来村多加史 2005年『歴史群像シリーズ 78 争覇春秋戦国』

戦国時代の宮廷では「高台建築」がよく使われた。
階段ピラミッドのような土壇に、屋根や回廊を廻すもの。
建物としてはそれぞれ平屋建てだが、外観は多層の巨大建築に見える。
634の臨淄の宮殿もこの形式で描いている。

643 オルド

13世紀  モンゴル帝国 考証 宮脇淳子 2007年『歴史群像シリーズ特別編集 チンギス・ハーン』

チンギス・ハーンを始めとするハーン(王)の宮殿「オルド」 を推定復元。
モンゴル帝国は広大な国土を配下におさめたが、移動生活が基本の民族だけに、オルドもたたんで移動することができた。
その形は、巨大なゲル(モンゴル式のテント)と思われる。