
別府湾に突き出た半島の丘に木下氏が築城。
3万石ながら、不相応とも言える高石垣や天守を設けていた。

別府湾に突き出た半島の丘に木下氏が築城。
3万石ながら、不相応とも言える高石垣や天守を設けていた。

黒田勘兵衛(如水)の居城。中津川河口のデルタ地帯に、三角形の縄張りで築かれた。
後に細川忠興が城を改修したが、イラストは黒田時代を推定復元した。

中川秀成が築城した、近世では珍しい山城。
絶壁上の城址は、滝廉太郎の「荒城の月」のモデルだが、往時は壮大な城が広がっていた。

天守に相当する「御三階櫓」。
平面図とわずかに残る古写真を資料に復元した。

二度目の元寇(弘安の役)のイメージ復元。
最初の元寇の後に築かれた石築地(いしついじ)の効果もあって、日本軍は元軍の上陸を許さなかった。
約1か月の攻防後、元軍は撤退した。

博多周辺を南東から見る。
最初の元寇(文永の役)で博多湾に攻め寄せた元軍は圧倒的な兵力で上陸し、日本(幕府)軍は1日で水城(右下)まで後退した。
元軍はその夜の嵐で大被害を出して退却。
日本軍は、次の元寇に備えて海岸に石垣の城壁「石築地」(いしついじ)を築いた(赤いライン)。

板付遺跡は、縄文時代から弥生時代後期にかけての遺跡で、最古の水田遺構(弥生時代早期)がある。
イラストでは発掘に基づいて水路や橋などを復元するとともに、縄文と弥生の文化が混在した状況も表現した。

大野城は、大宰府北の山上に造られた古代山城。
城門の発掘調査から、上部の建物をイメージ。
大野城などの城には、防人(さきもり)が配属された。
当時の軍にはボウガン式の弓「弩」もあったことが記録されており、これも推定して描いている。

大宰府を守る古代山城、大野城と基肄城は、城内の建物はほとんどが蔵と考えられる。
炭化米や瓦が出土しており、「信貴山縁起絵巻」に登場するような校倉造の米蔵が推定できる。

大宰府を守る水城(みずき)を西側から見る。
正面の山が大野城、右の平地に大宰府の政庁や街があった。
博多から大宰府へ進むと、平地の狭い部分に横たわる水城の堀と土塁が、堅固な防御線となる。

大宰府の南を守る基肄城(きいじょう)の上から鳥瞰。
左上が、海外への玄関口・博多湾。
ここから内陸の大宰府までの間に、水城や大野城等の城郭施設を配し、防衛網を造っていた。

水城は、広大な水堀と土塁による城壁で、現在残る土塁からもその規模の大きさがうかがえる。
微妙に高低差のある地形に水を蓄えるため、木樋を使った水道が引かれていた。

江戸初期に福岡に入った黒田長政が、小倉に入った細川氏に対抗して築いた「筑前六端城」のひとつ。
207の鷹取城も同時期の城。
斜面の畝状竪堀は戦国期の遺構。
元和一国一城令によって廃城となるが、それ以前にはこのような小規模の織豊城郭が各地に存在した。

東から博多湾を見下ろす要衝に築かれた城で、戦国時代を通じて大友氏、毛利氏などが争奪戦を繰り返した。
立花宗茂が島津氏の大軍を撃退した籠城戦は有名。
イラストは、その後城主となった小早川氏時代を想定しており、中心部を織豊城郭的に復元した。

関ヶ原合戦後、福岡を領した黒田長政が、国境近くに築いた支城「六端城」の1つ。
中でも高取城は高い山上に忽然と現れた近世城郭で、異様な存在だった。元和一国一城令で廃城になるまで約15年の間存続した。