
武田氏の遠江進出作戦で、本陣的な役割を果たした。
その後、徳川氏が奪取。
徳川氏によって外堀が造られ、江戸時代の間も城は存続した。
日本の城の中でも、最も丸い縄張りの城。
現在、堀はすべて失われている。

武田氏の遠江進出作戦で、本陣的な役割を果たした。
その後、徳川氏が奪取。
徳川氏によって外堀が造られ、江戸時代の間も城は存続した。
日本の城の中でも、最も丸い縄張りの城。
現在、堀はすべて失われている。

藤枝の平城で、始めは今川氏によって築城され、武田氏によって整備された。
虎口に丸馬出しを多用するところも、武田流とされる。
イラストは武田時代を想定。
江戸時代の状況は、803に描いた。

天竜川と二俣川に挟まれた天険を利用した城で、武田、徳川軍が激しい攻防戦を繰り広げた。
天竜川に突き出ているのは、川から直接水が汲めたという水の手櫓で、籠城戦で焦点となった。

武田氏の先祖ゆかりの城。
本能寺の変後、旧武田領に侵攻した北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条氏直の本陣が置かれた。
北と南の出城は、この時に築かれた陣城と思われる。

武田勝頼が躑躅ヶ崎館に代わる本拠として築城。
高い台地上の丘陵部を利用しており、下には「七里岩」と呼ばれる断崖がそびえている。
武田氏滅亡後は、徳川氏の配下となった。

「能見城」とも言う。武田勝頼の新府城がある台地上を遮断する長塁。
新府城攻めの陣城とも考えられる。
ここでは、天正壬午の乱の際、新府に入った徳川家康が、若神子城に入った北条氏に対抗するために築いたと想定。

武田氏の築城による大規模な山城。
本能寺の変の後、北条氏と徳川氏が甲斐の領有を争った天正壬午の乱では、北条氏が前線基地とした。
街道の峠をまたぐように造られ、戦国の城の中でも極めて標高が高い。

武田氏の本城として有名。
何度も改修や増設が行われたことがわかっており、最末期(豊臣政権時代)の状態を描いた。
奥に見える山城が詰城の要害山城。

「武田館」とも呼ばれる武田氏の本拠。
武田信玄時代を想定している。
戦国時代の代表的な平城で、勝頼時代にはさらに曲輪が増設された。

小机城は、戦国時代に北条氏の拠点の一つだった。
南東から見ており、上を流れるのは鶴見川。
西股総生氏による復元案で、巨大な空堀が、当時は障子堀だったと推定。

小机城は横浜市港北区の戦国城郭で、玉縄城と同様に、北条氏の拠点城郭のひとつ。
2つの中心曲輪と、それを囲む大規模な空堀が特徴。
北東から見ており、832よりも現状の遺構に即した復元案。

玉縄城は、鎌倉近くに築かれた北条氏の拠点城郭。
地質は鎌倉に似ており、複雑に谷戸が入り込んでいる。
801とほぼ同じ内容を、別角度から描いた。

北条氏の拠点城郭の一つ。
すり鉢状の地形を中心にした独特の縄張りが特徴。
ここを本拠とした玉縄衆は、北条軍の中でも特に精鋭として知られていた。
坂井尚登氏の復元案。

北条氏による築城で、山頂の曲輪には石垣が使われている。
関東では珍しい畝状竪堀の遺構もある。
現在、山裾の川はダムが設けられて湖となっている。

横浜はもともと河口に発達した砂州で、開港当初は堀で外から切り離された島となっていた。
イラストは明治中期の状況で、中央の公園が現在の横浜スタジアム。道路が斜めになった地域が中華街。
手前の堤防は「象の鼻」と呼ばれ、大桟橋の根元に当たるが、2009年に明治期の形が復元された。