
裏長屋は、表通りの商家が大家となり、裏の敷地に設けるのが典型。
狭い路地の中には、共同井戸や便所、稲荷神社などもあった。
左が、特に狭くて風通しも悪い棟割長屋で、独り者の男が住む例が多かった。

裏長屋は、表通りの商家が大家となり、裏の敷地に設けるのが典型。
狭い路地の中には、共同井戸や便所、稲荷神社などもあった。
左が、特に狭くて風通しも悪い棟割長屋で、独り者の男が住む例が多かった。

大名行列が江戸の町に差し掛かった所を想定。
領地を出る際には必ずしも大行列ではなかったが、江戸に入る時には臨時雇いで人数をそろえ、体裁を整えることも多かったという。

闇市は、戦後の焼け跡で自然発生したが、やがてテキヤなどが仕切るようになる。イラストに描いた新宿東口和田組マーケットのように、整理された商店街も現れた。
5年ほど活況を呈したが、GHQの圧力で解体された。

鹿鳴館は、文明開化の象徴として有名。ヨーロッパ式の舞踏会などが開かれた。
しかし、その存続時期は意外に短い。
イラストでは、内部構造を細かく割って見せた。

ドーム化される以前の球場で、王貞治がホームラン数の世界新記録を達成した際の状況を、可能な限り再現した。

右の新聞社では伝書鳩が使われ、鉛筆削りのアルバイト学生もいる。
部屋にはタバコの煙が立ちこめ、屋上で弁当を食べたり、バレーボールに興じるなど、昭和のサラリーマンの典型的な様子を描いた。
左の商社では、テレックスの紙テープが床に渦を巻いている。

銀座ACB(ぎんざアシベ)は、昭和40年代に一斉を風靡したジャズ喫茶。
グループ・サウンズやアイドル歌手のステージも行われ、熱狂的なファンが詰めかけた。
もともと大量の観客が入ることは想定されておらず、二階の手すりが壊れて客が落ちる事故もあったという。

ペリーの来航以降、外国船の脅威を感じた幕府は、江戸の海上で敵船を迎えうつための海上台場を5つ設置した。
計画された海上台場は11基で、その半分しか完成しなかったが、御殿山下などの海岸台場と合わせて、江戸湾の防衛網を形成した。
現在の「お台場」もこの周辺を埋め立てて造られた地域。

江戸湾海上の台場のうち、最も西に位置したもの。直接波を受ける土台は緻密な石垣造りで、上部は砲撃のダメージを受けにくい土塁造り。
大砲での攻防を重視した構造は、当時の先端的な築城だった。

北条氏が、豊臣秀吉の進行を防ぐために整備した大規模な山城。
豊臣方の大軍によって一日で落城した。
245でも描いたが、それとは異なる西股氏の復原案をイラスト化。
当時は、現在観察される以上に石垣が多用されたと推定。
搦手とされる西側から見ているが、豊臣軍は西から攻めてきたので、西側に防御の重点が置かれていたとも考えられる。

八王子城は、東京で最も大規模な山城で、谷の居館群と山上の曲輪、それらを囲む尾根上の出城群からなる。
現在は、居館跡に大規模な石垣が復元されている。
イラストは居館がある西側から見ており、通常の城ではこちらが表側。
推定復元が多い 296の案に対して、現状の遺構を踏襲した復元案。

現在の神代植物園に隣接した戦国城郭で、堀の一部が残る。
関東によく見られる、舌状台地の先端の城。
北条氏の関東支配が進んだ頃には、使われなくなったと思われる。

青梅(二俣尾駅の北の山)の城。
三田氏が治めた城で、東京には珍しい本格山城のひとつ。

戦国時代の江戸城は、太田道灌が築城し、のちに北条氏の配下となっていた。
北条氏滅亡後に徳川家康が入場した時、御殿はかなり痛んだ状態だったが、家康は応急修理をして使ったと記録されている。

徳川家康時代の江戸城を、「慶長13年江戸図」と「江戸始図」から推定。
江戸始図で「5連続枡形」と言われた部分は、その後の寛永年間の江戸城では狭い通路として残されており、戦国時代の江戸城からの登城道が引き継がれたものと想定している。