
桃山時代末期から江戸初期にかけて宇和島城を居城とし、近世城郭として整備した藤堂高虎時代の天守。伊達氏によって1069の天守に建て替えられる際、古い天守を調査した記録(平面図)から推定復元した。
自然の岩盤を利用した天守台と出入りの多い複雑な平面が特徴で、整然とした近世城郭を確立させた藤堂高虎も、初期の城は異なっていたことが分かる。

桃山時代末期から江戸初期にかけて宇和島城を居城とし、近世城郭として整備した藤堂高虎時代の天守。伊達氏によって1069の天守に建て替えられる際、古い天守を調査した記録(平面図)から推定復元した。
自然の岩盤を利用した天守台と出入りの多い複雑な平面が特徴で、整然とした近世城郭を確立させた藤堂高虎も、初期の城は異なっていたことが分かる。

宇和島城に現存する天守で、1068との比較のために同アングルから描いている。
江戸時代前期~中期にあたる寛文年間に、伊達氏によって建てられた。

藤枝市の山城で、駿河の朝比奈氏の詰城とされる。現地で城址とされている場所は、陣所跡の可能性はあるが城跡として不明瞭。イラスト化したのは、それとは別の尾根の先端部で、堀切や虎口跡が明瞭に残されている。
地元の城郭研究家、関口氏の研究で認知された城址で、関口氏の案内で現地調査して描いた。

守護大名今川氏の跡目争い「花倉の乱」の舞台として知られる山城。玄広恵探が篭った花倉城の籠城戦が、乱の最後の戦いとなった。これに勝利して恵探を滅ぼした今川義元は、大大名に成長する地盤を固めた。

飛騨の国人領主、古川氏(姉小路三家の一つ)の城。その後力で古川氏の名跡を継いだ三木氏の本拠。織田信長のもとで飛騨に侵攻した金森氏が、一時期は古川城を本拠としたと考えられ、本丸周辺には織豊城郭的な石垣の跡が残る。
遠景右は、金森氏の新城、増島城で、建設中の様子を想定。古川城の対岸にあった集落も増島城下に移転させている途中。
遠景左端の山城は、小島氏 (姉小路三家の一つ) の本拠だった小島城で、古川城と同様、金森氏の改修が入ったと考えられている。

飛騨市神岡町周辺を見下ろす山城。西から見る。北飛騨の国人領主、江馬氏の城と考えられる。西側は大規模な堀切を重ねて防御が厚い。城の東側(遠景)は、江馬氏の中心地で、様々な施設が見られる。
左から、当時の江間氏の館と思われる東町城(神岡城)、 室町時代の館跡として国史跡に指定された江間氏館(下館)の跡、 当時の江間氏の主城である高原諏訪城、廃絶寺院の跡、山間の支城である岩ヶ平城と洞城。

戦国時代の山城を説明するために描いた架空の城。普請の要素として、堀切、竪堀、横堀、畝状竪堀、障子堀、水堀、切岸、土塁、小規模な石垣、土橋などを描いた。縄張りの要素として、矢倉台、枡形虎口、食い違い虎口、馬出、馬場、御花畑、総構えなどのほか、山上の磐座、尾根伝いの抜け道や、階段状になった三日月型削平地など、山城ならではの要素も盛り込んだ。
柵、乱杭、逆茂木、門、矢倉、蔵、城主の館、武家屋敷や寺、町屋などの建物も戦国時代を想定しており、船で攻めてきた敵や後詰の軍勢、狼煙なども描いている。

現存する天守を描いたものだが、天守入り口の施設や木などによって、実際の写真では写らない部分を見せている。手前の付櫓は、天守母屋から斜めに突き出しており、屋根の納め方も変則的になっている。

戦国時代の江戸城想像図。太田道灌の築城で知られるが、それ以降も、江戸城は武蔵東部の拠点で、北条氏滅亡後は徳川家康が入城する。
西ヶ谷氏の復元案は、太田道灌時代と、それ以降の文献を総合して想像したもので、当時の平川(神田川)が現在の大手門付近を流れていたと想定しているところが特徴。

諏訪原城は、牧之原台地の一画を利用して築かれた 武田勝頼の前線基地。その後、徳川家康が奪取し、牧野城と名付けて改修を施した。
796と同じアングルから見ているが、2018年までの調査を反映させて、牧野城の最後の姿を推定した。

天下普請で築かれた加納城の天守(御三階櫓)。享保年間に描かれたという立面図をもとに推定復元した。

近世の城を説明するために描いた架空の城。
普請の要素として、空堀、水堀、土塁、石垣、馬出、枡形、土橋、大手と搦手、横矢がかり、鬼門除けの入隅などを描き、作事の要素として、天守、小天守、隅櫓、多門櫓、渡り櫓門、高麗門、棟門、埋門、冠木門、柵、塀、折塀、 本丸御殿、二の丸御殿、蔵、番所、神社、井戸、木橋などを入れている。
壁も下見板張りと漆喰壁の両方を入れ、狭間や窓、塀の控えなども、色々な種類が入るようにしながら、違和感がないように工夫した。

テレビが普及してきた時代。一般の家族が、お茶の間の白黒テレビで東京オリンピックの開会式を見ている場面を想定。東芝の炊飯器、ナショナルの冷蔵庫、シンガーの足踏みミシンなど、当時を代表する製品も描いた。男の子が持っているのは、後に「プラレール」と名付けられるシリーズ初期の新幹線で、車体の色が決まる前に製品化されたため、赤が配色されている。

町田市の丘陵地帯に城址が残る戦国時代前期の城。太田道灌が長尾景春の乱の際に前線基地として築城したとの推定によって描いた。中世山城らしく堀切を多用した縄張だが、主郭は横堀が巡らされ、初期的な桝形と言える食い違い虎口もあって、上杉氏時代の城の発達が見て取れる。
復元設定の季節は春で、関東の丘陵地で現在もよく見かける山桜や、ミツバツツジ、ヤマブキなども描き入れた。

藤堂高虎が築城、近世城郭の完成形の一つ。しかし、多数の絵図を改めて検討し直すと、 海に面して二重櫓が立ち並ぶ部分は、寛永期に今治に入った松平氏が完成させたと推定される。同様に瀬戸内の海城として知られる高松城(76)も、寛永期に松平氏が改修して海側に櫓を増築しており、共通性が高い。