
中国の三国時代、蜀南部の武将たちと諸葛孔明のイメージ。
蜀では劉備の死後、その子劉禅が帝位に付き、諸葛亮(孔明)が軍の中心を担う。
国の南部で起きた反乱を納めたのが「南征」で、この後、孔明の戦略は魏との対決「北伐」に向かう。
中国の三国時代、蜀南部の武将たちと諸葛孔明のイメージ。
蜀では劉備の死後、その子劉禅が帝位に付き、諸葛亮(孔明)が軍の中心を担う。
国の南部で起きた反乱を納めたのが「南征」で、この後、孔明の戦略は魏との対決「北伐」に向かう。
モンゴルでの戦いをイメージ復元。
若き日のチンギス・ハーンはテムジンと呼ばれ、将来を嘱望される武将だったという。
その妻ボルテがメルキト族に拉致される事件が起きるが、テムジンは有力者の協力も得てメルキト族を撃破し、妻も奪還して名を上げた。
元・明・清王朝の中国の王宮で、現在の北京市内。
現存するのは清時代の建物で、故宮博物院等として、中国のシンボルとなっている。
かつては、この外側を取り囲む皇城もあった。
明の時代に、山東半島に築かれた水軍基地で、主に倭寇の侵入に備える目的で築かれた。
明代の築城では、城壁も版築に変わって、瓦の一種である磚(せん)や石が使われるようになっていた。
唐の都、長安には東西2箇所に市が設けられ、西の市は民間の商人による市場として特に賑わった。
長安はシルクロードの終着点で、西方からの品々と旅人が集まる国際都市だった。
古代の中国で、何度も首都となった伝統の都。
イラストは後漢時代を想定している。
北宮、南宮の2つの宮殿を中心に、庭、廟、武器庫などがあった。
後の魏の時代には邪馬台国の使者も訪れたと思われる。
平壌(ピョンヤン)は高句麗の都だった。
中国の隋は、高句麗をたびたび攻めたが失敗し、それが隋の滅亡を加速させた。
古代の朝鮮半島では中国の都城に似た城もあったが、右上に見えるような、山を利用した独特の城も発達。
その技術は百済を通じて古代日本にも導入された。
「邯鄲の夢(枕)」の故事で知られる古代中国の城郭都市。
中国の戦国時代、趙の都として栄えたが、長平の戦いの後、秦が趙へ侵攻、ついに邯鄲も落城する。
秦に包囲された状況を想定して描いた。
中国古代の秦王朝の都、咸陽の想像図。
咸陽では、大規模な宮殿遺構が発見されている。
その一方、古代中国の都につきものの城壁遺構は発見されず、全容はまだ謎の部分が多い。
長安は、洛陽と同じく、古代中国で何度も都とされた。
イラストでは長安が最も栄えた唐の時代を想定。
古代日本の都だった平城京や平安京なども、長安に倣ってプランニングされた。
中国の元王朝末期、白蓮教徒による反乱軍(紅巾軍)の挙兵に端を発し、有力武将たちも挙兵して、国は内乱状態となる。
鄱陽湖(はようこ)は江州の南にある湖。
ここでの水軍戦で陳友諒を破った朱元璋は勢力を拡大、大都を占領して明の初代皇帝となった。
タイのアユタヤ王朝時代のイメージ図。
アユタヤでは象は特に重視され、象の飼育場もあった。
アユタヤは、日本では室町時代から江戸中期頃に存在し、タイ中部を中心に栄えた王朝。
象を用いた軍もあったという。
戦国時代の宮廷では「高台建築」がよく使われた。
階段ピラミッドのような土壇に、屋根や回廊を廻すもの。
建物としてはそれぞれ平屋建てだが、外観は多層の巨大建築に見える。
634の臨淄の宮殿もこの形式で描いている。
チンギス・ハーンを始めとするハーン(王)の宮殿「オルド」 を推定復元。
モンゴル帝国は広大な国土を配下におさめたが、移動生活が基本の民族だけに、オルドもたたんで移動することができた。
その形は、巨大なゲル(モンゴル式のテント)と思われる。