2061 月山富田城 堀尾時代

江戸時代  考証 安来市教育委員会  2021年 安来市歴史資料館蔵

大規模な戦国の山城として知られる。関ヶ原合戦後、堀尾吉晴が入城して、要所を石垣と瓦葺建物による織豊城郭に改修した。この際、東側の尾根上の曲輪群は利用されなかったと推測されている。堀尾吉晴が1611年に松江城を築いて移った後、廃城となったが、城下町はその後も存続した。しかし飯梨川の氾濫に悩まされたため、町全体で川の対岸に移住し、川の流路を南に移動させたため、城下町遺構の多くが川底となった。

2060 月山富田城 尼子時代

戦国時代  考証 安来市教育委員会  2021年 安来市歴史資料館蔵

戦国時代には尼子氏の本拠であり、戦国の山城として屈指の規模を誇る。尼子氏は毛利氏との攻防で次第に圧迫され、月山富田城に籠城するが、1566年、毛利氏の1年以上にわたる兵糧攻めによって開城した。
山の複雑な尾根を中心に多数の曲輪が広がるが、中心部は、江戸初期の堀尾氏時代に改修されており、推定の多い復元となっている。

856 赤穴瀬戸山城

安土桃山時代 考証 中井均 2020年  『歴史群像 164 12月号

出雲の国人で、尼子氏配下となった赤穴氏が築いた戦国の山城だが、中心部には石垣がある。関ヶ原合戦後、出雲を領した堀尾氏配下の松田吉久によって、中心部が織豊系城郭に改修されたと推定される。いびつな平面の小さい本丸が、そのまま天守台ではないかとの推測によって、不定形の天守を描いた。

2020 中世の益田湊

戦国時代 益田市蔵

益田市では、湊遺跡の一つが全面的に発掘され、その成果に基づいて復元。
海岸には石敷きの湊遺構がある。
炉の跡も複数発見されて、刀などの鉄製品工房があったと推定されている。

2019 中世の益田

時代 益田市蔵

中世の益田を北西から鳥瞰。
平野の奥に館(三宅御土居)や城(七尾城)が造られた。
河口に発達した湾に面して、いくつも湊が造られて、朝鮮や明との貿易も行っていた。
益田に限らず中世には、河口に発達した広い湾を、湊として利用した例が多い。

2013 七尾城

戦国時代 考証益田市教育委員会  益田市蔵

益田の国人領主、益田氏が築いた山城。
主殿や庭の遺構もあり、全国で戦乱が日常化した戦国後期に、本拠を三宅御土居からこの城に移したと想像される。

2018 三宅御土居

戦国時代 考証 益田市教育委員会 益田市蔵

山陰の益田は中世から益田氏の本拠として栄えた。
益田氏が平地に築いた館は三宅御土居と呼ばれる。
水堀に囲まれ、左右に高い土塁を備えていた。

758 出雲大社

平安時代 考証 香川元太郎 2000年 あすなろ書房 『日本人は木でなにをつくってきたか』

平安時代の出雲大社には、圧倒的な高さを持つ本殿がそびえ、何度か倒壊して建て直されたと伝承されている。
巨大な柱が必要なため、3本の木をタガで締めて1本にしていたとされるが、2000年には実際に3本を1つにした鎌倉期の柱の基底部が発掘された。

469 石見銀山

江戸時代 考証 中野義文 2012年 朝日ビジュアルシリーズ『週間 日本世界遺産』20石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた鉱山。世界遺産に指定されている。
江戸時代は幕府の直轄地で、「柵の内」への立ち入りが禁止されていた。
オレンジの線は「間歩」(まぶ)と呼ばれる坑道で、その全貌は現在も把握しきれないという。

272 月山富田城 西から

戦国時代 考証 西ケ谷恭弘 1997年 歴史群像シリーズ 49『毛利戦記』

尼子氏の本拠だった戦国城郭。
安土桃山時代には堀尾氏が入城して、中心部の石垣などを整備したとされる。
イラストは堀尾氏時代を想定。
270も同じ時代設定で描いた。
堀尾氏が松江城を築城したのに伴って、廃城となった。

271 月山富田城中心部

戦国時代 考証 西ケ谷恭弘 1997年 歴史群像シリーズ 49『毛利戦記』

堀尾時代の中心部をクローズアップ。
270,272も同じ時代設定で描いた。
建物は推定だが、御殿や天守があったと考えられる。

270 月山富田城

戦国時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社『日本の城』

堀尾氏時代の月山富田城を南から見る。
月山富田城は、複数の尾根に曲輪が広がる大規模な山城。
中心部を織豊系城郭に改修した当時、他の曲輪がどの程度利用されていたかは分からない。

228 月山富田城

戦国時代 考証 香川元太郎 2006年 学研『戦国の堅城Ⅱ』

戦国期の月山富田城を南から見る。
尼子氏の本城で、その後毛利氏の配下となり、最後は堀尾氏が改修した。
寺井毅氏の縄張り図による復元で、複雑な地形に何重もの防衛戦が張られていた。

96 松江城天守

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

現存する天守(国宝)の内部。
入り口となる付櫓の部屋の中に向かって、天守本体から狭間(銃眼)が開いている。
柱の中には、複数の材をかすがいで繋げて、太い柱にしたものが多数見られる。

89 松江城

江戸時代 考証 香川元太郎 2003年 PHP研究所 歴史街道スペシャル『名城を歩く』9

山陰を代表する城。
本丸などの中心部は、典型的な平山城。
三の丸は近世的で、三つの廊下橋が架かる。
しかし北の丸は地形に沿った中世的な構成。
さらに、ギザギザの折塀に囲まれた後曲輪など、さまざまな表情を持っていた。