149 上海

1860年頃 中国 考証 村松伸 1996年 『歴史群像シリーズ 46 高杉晋作』

19世紀中頃(日本では幕末)の上海。
左の城壁に囲まれた地域が「県城」と呼ばれる古くからの街。
その東側には、西洋列強の領事館や、商社などの近代建築が立ち並んでいた。
「租界」「バンド」などと呼ばれたこの地域は、その後さらに発達し、現在の先進都市上海のもとになった。

2026 閑山島の戦い

安土桃山時代 考証 香川元太郎 1998年 村上海賊ミュージアム蔵

秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)では、戦い慣れた日本軍が朝鮮の都市を次々と制圧したが、李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の活躍が日本側の勢いを阻んだ。
イラストは閑山島(ハンサンド)の戦いを想定したもので、地形を熟知した李舜臣の戦術と、新兵器「亀甲船」によって、脇坂安治の水軍が大打撃をこうむった。

782  長門浦城•松真浦城

安土桃山時代 考証 三島正之 2014年『歴史群像 128 』

韓国南部、巨済島(コゼド)の倭城。
文禄・慶長の役の際、日本軍は現地の拠点として多くの城を築いた。
これを「倭城」と呼び、近世城郭の発達史の中で重要な存在。
巨済島の倭城群は、李舜臣率いる朝鮮水軍に圧倒されていた日本水軍を守るため、湾の入り口を抑えていた。

653 碧蹄館の戦い

安土桃山時代 考証 香川元太郎 2001年『 歴史群像シリーズ特別編集 図説戦国合戦集』

文禄の役で平壌まで進行した日本軍は、明・朝鮮軍の攻勢を受けて漢城まで後退する。
進行する明・朝鮮軍と、それを迎え討つ日本軍は漢城北西の谷、碧蹄館(へきていかん ピョクチェグァン)で激突、日本側が勝利した。

826 泗川倭城

安土桃山時代 考証 堀口健弐 2018年『 歴史群像 148 』

泗川(しせん サチョン)倭城の中心部。
秀吉が死去した後の撤退戦で、この城に籠る島津軍が、明の大軍を撃退した。
朝鮮側の絵図などを資料にした堀口氏の復元案。

191 泗川倭城

安土桃山時代 考証 高田徹 2001年 歴史群像シリーズ 戦国 セレクション 島津戦記』

泗川倭城は、朝鮮半島南岸のほぼ中央に築かれていた。
826でも中心部を描いたが、このイラストは高田氏による復元案で、国内の近世城郭に近いイメージ。

190 順天倭城

安土桃山時代 考証 中井均 2001年『歴史群像 46 』

順天(じゅんてん スンチョン)倭城は、西の最前線の倭城。
小西行長らの武将が守っていたが、明・朝鮮連合軍の攻撃を受け、激しい戦いの末、これを撃退。
秀吉の死によって慶長の役は終結に向かい、各武将は大きな犠牲を払いながら朝鮮半島から撤退した。

807 浦添城

戦国時代 考証 上里隆史 2017年 『歴史群像 144』

浦添城(うらぞえグスク)は、沖縄を統一した中山(後の琉球王朝)の本城。
首里城に本城を移す直前の状況を想定。
寺や池などの配置が首里城に似ている。
太平洋戦争の沖縄戦では激戦地になった。

793 那覇港

戦国時代 考証 上里隆史 2016年 『歴史群像 138』

戦国時代から江戸初期にかけての那覇港の様子。
手前向かって左の三重城(みいグスク)や、右の屋良座森城(やらざむいグスク)などが港を守る。
左奥の首里とは、真珠道(まだまみち)と呼ばれる道路で結ばれていた。
手前のサンゴ礁は、現在大半が埋め立てられている。

370 今帰仁城 落城

戦国時代 考証 香川元太郎 1993年 世界文化社

今帰仁城(なきじんグスク)は琉球の三山時代(室町時代)に北山の中心だった城。
中山の攻撃によって落城した。
その後は中山(のちの琉球王朝)の管理下にあったが、薩摩の島津氏が琉球を攻めた際にも戦場となった。

364 今帰仁城

戦国時代 考証 西股総生 2011年『歴史群像 108 』

沖縄の代表的なグスク(城)の1つ。
まだアーチ門が用いられる前の古い手法で作られる。
首里城などとともに世界遺産に指定されている。

371 首里城正殿

江戸時代 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社 『日本の城』

首里城宮殿の中心建物で、外観は2層だが、内部は4階建て。
太平洋戦争で焼失したが、平成の復元事業で、多くの宮殿建物とともに再建された。
このイラストも、再建された正殿をもとに描いている。
しかし、正殿を中心とする宮殿7棟は、2019年の火災で再び焼失した。現在、再建事業が進められている。

363 首里城

江戸時代 考証 香川元太郎 2003年 PHP研究所『名城を歩く』14

琉球王朝の中心。
三山時代には、北山、中山、南山と呼ばれる3勢力が覇権を争った。
その後、沖縄を統一した中山(琉球王朝)が新たな本城として築城。
イラストは江戸時代の状況を復元。
サンゴの石灰岩による白い石垣は、他の多くのグスクにも見られる。

304  岩剣城

戦国時代 考証 三木靖  2001年 歴史群像シリーズ『島津戦記』

岩剣城(いわつるぎじょう)は、切り立った断崖上に築かれた堅城。
島津義久の初陣は、この城の攻城戦だった。
あまりにも急峻で不便だったためか、島津氏の城となってからは次第に使われなくなった。

750 田原坂の戦い

明治時代 考証 中尾豊 1990年 歴史群像シリーズ 21『西南戦争』

田原坂(たばるざか)は、西南の役で激戦地となった熊本郊外の丘陵地。
野戦築城も行いながら、薩摩軍と政府軍が激戦を繰り返し、多数の戦死者を出した。
戦いは政府軍が制し、薩摩軍は退却に転ずる。