
益田市では、湊遺跡の一つが全面的に発掘され、その成果に基づいて復元。
海岸には石敷きの湊遺構がある。
炉の跡も複数発見されて、刀などの鉄製品工房があったと推定されている。

益田市では、湊遺跡の一つが全面的に発掘され、その成果に基づいて復元。
海岸には石敷きの湊遺構がある。
炉の跡も複数発見されて、刀などの鉄製品工房があったと推定されている。

中世の益田を北西から鳥瞰。
平野の奥に館(三宅御土居)や城(七尾城)が造られた。
河口に発達した湾に面して、いくつも湊が造られて、朝鮮や明との貿易も行っていた。
益田に限らず中世には、河口に発達した広い湾を、湊として利用した例が多い。

益田の国人領主、益田氏が築いた山城。
主殿や庭の遺構もあり、全国で戦乱が日常化した戦国後期に、本拠を三宅御土居からこの城に移したと想像される。

山陰の益田は中世から益田氏の本拠として栄えた。
益田氏が平地に築いた館は三宅御土居と呼ばれる。
水堀に囲まれ、左右に高い土塁を備えていた。

平安時代の出雲大社には、圧倒的な高さを持つ本殿がそびえ、何度か倒壊して建て直されたと伝承されている。
巨大な柱が必要なため、3本の木をタガで締めて1本にしていたとされるが、2000年には実際に3本を1つにした鎌倉期の柱の基底部が発掘された。

石見銀山(いわみぎんざん)は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた鉱山。世界遺産に指定されている。
江戸時代は幕府の直轄地で、「柵の内」への立ち入りが禁止されていた。
オレンジの線は「間歩」(まぶ)と呼ばれる坑道で、その全貌は現在も把握しきれないという。

尼子氏の本拠だった戦国城郭。
安土桃山時代には堀尾氏が入城して、中心部の石垣などを整備したとされる。
イラストは堀尾氏時代を想定。
270も同じ時代設定で描いた。
堀尾氏が松江城を築城したのに伴って、廃城となった。

堀尾時代の中心部をクローズアップ。
270,272も同じ時代設定で描いた。
建物は推定だが、御殿や天守があったと考えられる。

堀尾氏時代の月山富田城を南から見る。
月山富田城は、複数の尾根に曲輪が広がる大規模な山城。
中心部を織豊系城郭に改修した当時、他の曲輪がどの程度利用されていたかは分からない。

戦国期の月山富田城を南から見る。
尼子氏の本城で、その後毛利氏の配下となり、最後は堀尾氏が改修した。
寺井毅氏の縄張り図による復元で、複雑な地形に何重もの防衛戦が張られていた。

現存する天守(国宝)の内部。
入り口となる付櫓の部屋の中に向かって、天守本体から狭間(銃眼)が開いている。
柱の中には、複数の材をかすがいで繋げて、太い柱にしたものが多数見られる。

山陰を代表する城。
本丸などの中心部は、典型的な平山城。
三の丸は近世的で、三つの廊下橋が架かる。
しかし北の丸は地形に沿った中世的な構成。
さらに、ギザギザの折塀に囲まれた後曲輪など、さまざまな表情を持っていた。

安土桃山時代に吉川広家が築城し、慶長年間に中村一忠が改修して完成させた。
イラストは中村氏時代で、当時は吉川時代の曲輪も使われていたと想定している。

戦国期に山名氏が築城。
尼子氏、毛利氏の争奪の地となった。
毛利方の将が篭る城を、信長配下の羽柴秀吉が攻めた際には、多数の陣城が鳥取城を包囲し、大規模な兵糧攻めが行われた。
鳥取城は、江戸時代にも近世城郭に改修されて存続する。

空海が開いた高野山は、標高800mの高原地域に営まれた真言宗の聖地。
その中心である壇上伽藍。
中心の大塔は、内部を透かして見せた。
壇上伽藍は現在もこの状況に近いが、左の山門は失われている。