
姫路城の内堀に囲まれた城の本体部分。
37のイラストと同じ江戸中期の史料を用い、角度を変えて描いた。
建物が現存しれているのは、丘を利用した部分(イラストでは上半分)だけだが、それでも現存建物の数は、他の城に比べて群を抜いている。

姫路城の内堀に囲まれた城の本体部分。
37のイラストと同じ江戸中期の史料を用い、角度を変えて描いた。
建物が現存しれているのは、丘を利用した部分(イラストでは上半分)だけだが、それでも現存建物の数は、他の城に比べて群を抜いている。

大天守と3つの小天守を渡り櫓で結ぶ構成は「連立式天守」と呼ばれる。
中庭には2階建ての台所もあり、その構造は極めて複雑。
解体修理報告書と現地取材を資料とした。
香川の城イラストの中でも、最も制作に時間がかかった。

西の丸を囲む多門櫓「長局」の最深部にある櫓。
二階は畳や障子が入り、住宅的な造りとなっている。
西の丸は、徳川将軍家から千姫が本多氏に輿入れした際に、整備された。
化粧櫓も、千姫の化粧料で建てられた事から名づけられた。

天守曲輪の北側に配された多門櫓。
内部に井戸があるなど籠城への備えが見られる。
外観は連続した櫓だが、内部はそれぞれ独立した倉庫。
中央の多門櫓は、塩が蓄えられていたとされ「塩櫓」と呼ばれる。

姫路城の中心部(丘陵部分)の大手門に当たる二階櫓門。
城内側から見ている。
意外にも内部に階段はなく、1階と2階は入り口が別。

秀吉の居城だった時の姫路城天守イメージ。
当時の姫路城は、現在より戦国的な要素がある織豊城郭と思われる。
姫路城天守を解体修理した際、転用材が発見された。
これを秀吉時代の天守の材と考えて、想像した。

羽柴秀吉時代の姫路城を推定。
姫路城はもと黒田官兵衛の城で、秀吉が、信長の下で中国戦線を戦う際、居城として整備した。
当時は丘陵部分のみが城だったと推定される。

琵琶湖を望む山城で、石田三成の本拠。
城の東西、両側に城下集落が発達していたと推定している。
左の湿地を隔てた対岸が彦根で、彦根築城の際には、佐和山城の建物を解体して櫓の材に利用したとされる。

琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋は、古代から重要な橋で、構造も工夫されていたことから「唐橋」と称された。
イラストは飛鳥時代の壬申の乱を描いたもので、瀬田の唐橋が主戦場となった。

中世・戦国時代に勢力を誇った比叡山には、広い範囲に伽藍や僧坊が点在し、山麓には門前町が広がっていた。
イラストは、織田信長による比叡山焼き討ちの様子をイメージ。

彦根東部の山中にあり、伝承もほとんどない城。
京極氏が軍事拠点として築いたと推定されている。

浅井氏の居城で、 戦国時代を代表する山城のひとつ。
尾根上に曲輪が連続する。
堅城と詠われたが、織田信長に攻められ落城した。

京と近江を結ぶ街道を見下ろすように造られた、森可成の城。
戦国的な立地の山城だが、中心部に石垣が用いられており、織豊系山城の典型例。

近江の戦国大名、六角氏の居城だった大規模な山城で、石垣も多用されている。度々戦いの舞台になったとされるが、六角氏は信長に圧迫されるようになると、観音寺城を開城して退いたとされる。
その後、山裾に接する低い山(右上)に安土城が造られた。

琵琶湖に面した水城で、背後は比叡山。
比叡山焼き討ちの後、明智光秀が比叡山の抑えとして築城。
信長の安土城、秀吉の長浜城などとともに、琵琶湖の水運ネットワークの要の役も担っていたと推定される。