143 仙台城

江戸時代 考証 香川元太郎 2004年 PHP研究所 『名城を歩く』21

仙台城は東北の雄藩・伊達氏の城で、「青葉城」の別名でも知られる。
戦国的な断崖上の本丸に、近世城郭の櫓が立ち並ぶ。
天守台もあるが、天守は立てられなかった。
二の丸が本丸から遠く離れるなど、それぞれの曲輪の独立性が強いところも個性的。

753 酒田港

江戸時代 考証 本間勝善 2007年 朝日ビジュアルシリーズ『週刊藤沢周平の世界 11』

酒田は最上川河口の港。
江戸時代には北前船の中心基地で、東北一の港として栄えた。
イラストは帆を下ろして停泊する北前船を中心に描き、奥に酒田の街を見せた。

312 長谷堂城の戦い

戦国〜江戸時代初期 考証 誉田慶信 2001年 歴史群像シリーズ特別編集『図説戦国合戦集』

長谷堂城は最上氏の重要な支城。関ヶ原の戦いに連動した慶長出羽合戦で、直江兼続率いる上杉軍の猛攻を受けた。
しかし城は持ちこたえ、関ヶ原での西軍敗戦の報を受けた上杉軍は撤退した。

259 長谷堂城

戦国〜江戸時代初期 考証 誉田慶信 2009年 『歴史群像 97』

山形城の郊外に位置する最上氏の支城で、戦国時代には伊達氏との攻防の焦点になった。
もともと山城だが、慶長期には惣構えの堀を持つ平山城的な縄張りとなる。
慶長出羽合戦では、総構えの力で上杉軍を退けたと推定されている。

243 舘山城

戦国時代 考証 三島正之 2014年 『歴史群像 124』

伊達氏が築城し、後世の米沢城が築城される以前、ここが伊達氏の本拠だったとの推定による復元。
米沢市の西側の郊外、鬼面川と大樽川の合流地に城跡がある。
若き伊達正宗も居城とし、ここが会津侵攻などの拠点になったと思われる。

241 畑谷城

戦国時代 考証 三島正之 2009年 『歴史群像 96』

山形城を本拠とした最上氏が、上杉氏、伊達氏に対する最前基地として整備。
関ヶ原合戦直前に起きた慶長出羽合戦で、上杉軍(直江兼続)の攻撃を受け、激戦の末、落城した。

142 米沢城下

江戸時代 考証 小野 榮 2007年 朝日ビジュアルシリーズ『週刊藤沢周平の世界 24』

上杉氏の城と城下町。
上杉景勝は会津で120万石を領する大大名だったが、関ヶ原合戦で西軍側についた責を問われ、米沢30万石に改易された。
小さめの城に対して城下町が大きく広がるのは、石高を減らされても家臣を解雇せずに抱え続けたためという。

140 鶴ヶ岡城

江戸時代 考証 鶴岡市郷土資料館 2006年 朝日ビジュアルシリーズ『週刊藤沢周平の世界 05』

小規模な平城で、ほぼ本丸のみの構成。
しかし大手門は石垣造りの枡形虎口で、御殿奥に天守的な二階櫓があるなど、近世城郭の特徴を備えている。

549 毛越寺

平安時代 考証 香川元太郎 2000年 あすなろ書房 『日本人は石で何を作ってきたか』

毛越寺(もうつうじ)は奥州藤原氏の都、平泉に造られた浄土教寺院のひとつで、特に規模が大きいもの。
当時の伽藍は失われているが、池を中心にした庭園が残り、本堂も再建された。
平泉の史跡群として、世界遺産に指定されている。

362 厨川柵

平安時代 考証 西ケ谷恭弘 1993年 『歴史群像 8』

平安時代後期、厨川柵が戦場となった後三年の役の攻防をイメージ。
厨川柵の詳しい構造は不明。
典型的な古代城柵よりも、中世平城に近いとの推定でイメージしている。

357 柳の御所

平安時代 考証 香川元太郎 1996年 世界文化社 『日本の城』

奥州藤原氏の本拠地、平泉の鳥瞰。
山上の中尊寺や、左の毛越寺など浄土教寺院が点在する。
川に突き出した柳の御所は、藤原氏の居館と推定されている。

135 盛岡城

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

東北では数少ない総石垣の城。
イラストに描いた江戸後期では、本丸御殿が建増されて、石垣下の段まで広がる珍しい構造となっていた。

134 盛岡城(本丸入口)

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年  世界文化社 『日本の城』

江戸時代後期の本丸入口を二の丸から見る。
通常の橋のほか、2つの廊下橋がかけられた複雑な構造。
建て増しを繰り返して、このような形になったと思われる。

797 しなの館

戦国時代 考証 三島正之 2016年 『歴史群像 140 』

しなの館(しなのだて)は、役内川沿いに点々と作られた戦国期の城郭群のひとつ。
畝状竪掘がびっしりと取り巻いているが、築城の経緯は不明。
東北では山城でも「館」(たて)の名をもつものが多くある。

345 払田柵の門

平安時代 考証 香川元太郎 1996年  世界文化社 『日本の城』

払田柵(ほったのさく)は 平安初期に造られた古代城柵のひとつ。
その門を発掘成果から推定復原。
現地にも同種の門が復原されている。
払田柵は、築城年代はほぼ特定されているものの、文献のどの城柵に当たるのかわからない謎の遺構。