880 江戸城1590年(家康入城時) 

安土桃山時代  考証  西股総生  2023年 『歴史群像181』

西股氏による想像復元。江戸城は、それまで北条氏の拠点城郭のひとつだった。鉢形城に見られる内側を石積みで土留めした土塁や、北条氏の城に多く見られる障子堀も設けられていたと想定。城下町は小田原城に次ぐ規模だったと思われるが、籠城戦の際に焼き討ちされて荒れていたと想定した。

851 江戸城

戦国時代 考証 西股総生 2020年『歴史群像 160 』

戦国時代の初期、太田道灌時代の江戸城を、西股氏の考証で想像復元した。当時の江戸城は現在の江戸城本丸にあたり、日比谷入江に面した舌状台地を利用したと推定される。その後、北条氏や徳川氏による改修が繰り返されており、具体的な姿は想像するしかないが、西股氏は戦国前期の上杉氏の築城パターンを江戸城の地形に落とし込んで、リアリティのある復元案を提示し、それをイラスト化した。

447 保土ヶ谷宿

江戸時代 考証 香川元太郎 2004年 学研『日本の歴史 パノラマ絵地図 6』

保土ヶ谷宿は東海道の宿場で、現在の横浜市保土ヶ谷区にあった。町割り絵図をメイン資料として復元。本陣、助郷会所、高札場などがある江戸時代の宿場町の例として描いたもの。

454 江戸の上水道

江戸時代 考証 香川元太郎 2004年 あすなろ書房『日本人は水をどのように利用してきたか』

江戸の上水道を模式化したイラスト。羽村の堰から始まる玉川上水の水が、裏長屋の共同井戸まで送られる過程を見せている。「すいどうばし」の語源になっている水道橋は、江戸城北側の外堀(神田川)を超えて、駿河台の武家屋敷に水を送った。分水された野火止用水が農業用水として利用され、新河岸川を「いろは樋」で渡る様子も描いている。

468 吉良邸(討入り当時)

江戸時代 考証 香川元太郎 2000年 あすなろ書房『日本人は木で何を作ってきたか 』

忠臣蔵の舞台となった吉良氏の屋敷。吉良氏は旗本だが、江戸屋敷は大名屋敷に匹敵する構えだった。討ち入りの前には、屋敷の建て替えが行われており、その平面図から復元。周囲の長屋には警護の兵が多数いたが、討ち入りの浪士たちが戸口をかすがいで固定したため出られなかったという。

503 分倍河原合戦

鎌倉時代 考証 英太郎 2004年

鎌倉時代末期に、新田義貞らの反幕府軍と、北条氏を中心とする鎌倉幕府軍の間で行われた合戦。北関東から鎌倉を目指して進軍した反乱軍に、小手指ヶ原の合戦などで敗れ、退却した幕府軍は現在の府中市、分倍河原付近で反乱軍を迎え撃つ。当初は援軍を得た幕府軍が勝っていたが、その後反乱軍にも援軍が加わって、最終的には反乱軍が勝利。倒幕への流れを決定づけた。

831 浄福寺城

戦国時代 考証 香川元太郎 2018年 ベストパートナー(浜銀総合研究所)

八王子市郊外、八王子城の北に城址がある山城。もともと、国人領主の大石氏の城で、北条氏が八王子城を築いた際にはその支城として使われたとされる。峻険な痩せ尾根を利用し、堀切と竪堀で防御する古いタイプの山城だが、複数の尾根を取り込んで規模が大きい。

455 吉原

江戸時代 考証 香川元太郎 1997年 東京堂出版『分解図鑑 日本の建造物』

吉原の典型的な店の内部。2階建てで、道路に面した表の建物と、奥の建物が廊下で結ばれ、間に中庭がある造り。イラスト右下側が1階、左上側が2階を描いている。暖簾が下がるのが入口で、その脇の部屋は、外から格子越しに中の女郎を見ることができた。

449 湯屋

江戸時代 考証 香川元太郎 2004年 あすなろ書房『日本人は水をどのように利用してきたか』

江戸時代に都市部で、湯屋(公衆浴場)が登場する。手前に洗い場があり、「ざくろ口」と呼ばれる低い入り口を潜って奥の浴槽に入る。初めは混浴だったが、幕府の指導によって男女別浴のスタイルになった。 しかし地域差があり、江戸の湯屋は入り口から別だが、上方の湯屋(左上)は浴槽のみ別で、洗い場は共有が普通だった。江戸の湯屋では男湯のみ2階があり、娯楽や交友の場になることが多かった。

769 タイムトラベル 江戸時代

江戸時代 2005年 帝国書院 中学社会科教科書

江戸時代(江戸後期)の街の様々な要素を盛り込んでいる。埋め立てや運河の開削などで開発された 江戸の海浜地帯には、商家や倉が立ち並び、廻船からの荷物を運ぶ小船などがひしめいていた。路上で商売をする振り売りや屋台、大道芸人など、様々な人物も表現し、遠景の橋には大名行列も描き入れている。

※過去の教科書に載っていた作品です。現行の教科書には改訂版の江戸時代も含めて、12の時代イラストが載っています。帝国書院の紹介ページもご覧ください。

2032 江戸城想像図

戦国時代 2018年 考証 西ケ谷恭弘 個人蔵 

戦国時代の江戸城想像図。太田道灌の築城で知られるが、それ以降も、江戸城は武蔵東部の拠点で、北条氏滅亡後は徳川家康が入城する。
西ヶ谷氏の復元案は、太田道灌時代と、それ以降の文献を総合して想像したもので、当時の平川(神田川)が現在の大手門付近を流れていたと想定しているところが特徴。

847 小野路城

戦国時代 考証 西股総生 2019年『歴史群像 157 』

町田市の丘陵地帯に城址が残る戦国時代前期の城。太田道灌が長尾景春の乱の際に前線基地として築城したとの推定によって描いた。中世山城らしく堀切を多用した縄張だが、主郭は横堀が巡らされ、初期的な桝形と言える食い違い虎口もあって、上杉氏時代の城の発達が見て取れる。
復元設定の季節は春で、関東の丘陵地で現在もよく見かける山桜や、ミツバツツジ、ヤマブキなども描き入れた。

795 滝山城

戦国時代 考証 香川元太郎 2016年 ベストパートナー(浜銀総合研究所)

東京を代表する戦国の城。
北条氏が武蔵地方の拠点としていた。
空堀と土塁を組み合わせ、角馬出と横矢がかりを多用する北条流縄張りの例。

742 葛西城

戦国時代 考証 西ヶ谷恭弘 1990年 『東京の一万年 上巻』

中央の館を中心に発達した、戦国時代の平城の典型例。
川と低湿地を利用した水堀で、防備を固めていた。
第一次国府台合戦で北条方の出撃基地となり、その際の状況を想定している。

467 江戸の裏長屋

江戸時代 考証 香川元太郎2002年 あすなろ書房 『衣食住に見る日本人の歴史4』

裏長屋は、表通りの商家が大家となり、裏の敷地に設けるのが典型。
狭い路地の中には、共同井戸や便所、稲荷神社などもあった。
左が、特に狭くて風通しも悪い棟割長屋で、独り者の男が住む例が多かった。