安楽平城(あらひらじょう)は荒平城とも表記される。はじめは大内氏の城として築かれたとされるが、その後大友宗麟の配下の城となって、龍造寺氏の大軍に攻められて落城したとされる。
イラストは、その籠城戦を想定しており、その季節に合わせて冬景色に描いた。
尾根上に曲輪を繋げ、要所に堀切を設けた戦国の山城らしい縄張りだが、各所に石垣が設けられており、織豊城郭とは異なる在地系の石垣と評価されている。
投稿者: さちたろう
861 中城グスク
沖縄では15世紀に中山が琉球統一をはたすが、その戦いで活躍した護座丸が築いたグスク。世界遺産にも含まれている。
自然の露岩の上に高石垣を築き、アーチ門や火矢用の銃眼を設けるなど、構造的な完成度が高い。
復元の想定は1458年。この年、護座丸は対岸(左上)の勝連グスクの阿麻和利によって謀反の疑いをかけられ、中山王の軍に攻められたが、抵抗せずに死を選んだとされている。
2053 野口城
古川盆地西端の戦国城郭。特に中心曲輪の北側では大規模な堀切が連続し、畝状竪堀も見られる。これらは三木氏による改修と推定されている。上方(東側)は小島城。描いたのは姉小路氏が中心とした地域で、2城のほぼ中央の段丘上には、姉小路氏の居館とされる岡前館跡があるが、三木氏時代には廃絶していたと推定される。
2054 小鷹利城 三木氏時代
戦国時代中期、姉小路氏に代わって三木氏(名族、姉小路氏の名を継いだため、三木氏も姉小路氏と呼ばれた)が飛騨を支配した。その時代の飛騨の山城は畝状竪堀の構築が顕著で、小鷹利城には現在も深い堀跡が残されている。西側からの金森長近による侵攻を想定して築かれたと考えられる。
2055 小鷹利城 姉小路氏時代
飛騨の古川盆地西端には、戦国の山城が複数築かれており、手前の小鷹利城、中央の向小島城、左の野口城が知られる。この地域は姉小路氏の支配地域で、小鷹利城と向小島城は、姉小路氏の一族、向氏の本拠とされる。
小鷹利城の主郭では、この時代と推定される大型の礎石建物跡が発見され、関係者を驚かせた。
2056 萩原諏訪城
三木氏を滅ぼして飛騨一帯を配下に置いた金森長近が、飛騨南部の拠点として築いた織豊城郭。大地の先端部の城で、ここにあった諏訪神社を移転させて築城したが、江戸前期に廃城となり、その後再び諏訪神社が建てられている。
搦手口では当時の石垣が確認されているが、現在見られる石垣の多くは廃城後のものと考えられる。絵図などの資料も少なく、イラストは推測の多い復元イメージとなった。
2057 桜洞城
段丘の先端部を利用した城で、戦国時代、飛騨のほぼ全域に勢力を拡大した三木氏の居城。広範囲に発掘調査が行われ、空堀や、庭園と思われる石敷きなどが検出されている。ただ中心建物の跡は見つかっておらず、復元イラストでは、未調査区域を中心に主殿などを描いた。
2061 月山富田城 堀尾時代
大規模な戦国の山城として知られる。関ヶ原合戦後、堀尾吉晴が入城して、要所を石垣と瓦葺建物による織豊城郭に改修した。この際、東側の尾根上の曲輪群は利用されなかったと推測されている。堀尾吉晴が1611年に松江城を築いて移った後、廃城となったが、城下町はその後も存続した。しかし飯梨川の氾濫に悩まされたため、町全体で川の対岸に移住し、川の流路を南に移動させたため、城下町遺構の多くが川底となった。
2060 月山富田城 尼子時代
戦国時代には尼子氏の本拠であり、戦国の山城として屈指の規模を誇る。尼子氏は毛利氏との攻防で次第に圧迫され、月山富田城に籠城するが、1566年、毛利氏の1年以上にわたる兵糧攻めによって開城した。
山の複雑な尾根を中心に多数の曲輪が広がるが、中心部は、江戸初期の堀尾氏時代に改修されており、推定の多い復元となっている。
2052 吉田城
豊川に面した段丘上に築城された城。戦国時代から今川氏、徳川氏が三河の拠点城郭として、家臣を配備した。豊臣政権下では池田輝政が入城、大規模に改修したとされる。江戸時代にも譜代大名が頻繁に入れ替わって城主となった。城下町は東海道の重要な宿場でもあり、吉田大橋も名所として知られていた。
イラストの資料には浮世絵等の絵画資料を多数用いており、江戸後期の状況を復元している。
859 飯盛城
飯盛山城とも言う。最初の築城は南北朝時代とされるが、1560頃に、河内の戦国大名、三好長慶が大規模に築城し、芥川城(294番)からここに居城を移した。石垣(高さ2メートル前後ながら、総石垣に近い規模)や、塼列建物(土蔵造り)もあり、織豊城郭以前の先進的な城といえる。周辺平野部の支城や寺内町には教会もあったとされる。長慶は当時のイエズス会に「天下人」と認識されていた。
858 大野城
天正年間、織田信長の家臣だった金森長近が築城。長近は豊臣政権下で飛騨高山に移るが、城は江戸時代にも城主を変えながら存続した。江戸中期の絵図や平面図から、二階建ての御殿を連結させた特殊な天守があったことが知られている。飛騨高山城の天守も、御殿と一体となった特殊なもので、どちらも金森長近の構築と考えられている。
2059 大森城
中規模の戦国城郭で、土岐氏の家臣、奥村氏の城。しかし、ダイナミックに巡らされた横堀と、横矢を意識したテクニカルな虎口が見られ、小牧長久手合戦の際に改修されて使用されたのではないかとも想像されている。
2058 今城
丘陵の先端部を利用した城で、小振りだが堀や切岸の遺構がほぼそのまま残る。
虎口の桝形だけは、城の規模に似合わない大きさで、小牧長久手合戦の折に、戦国の砦跡を再利用して虎口を強化したのではないかとも想像されている。
2051 明知城と落合砦・仲深山砦
落合砦上空から明智集落を見下ろしており、時代設定は2050と同じ天正2年。中央が明知城で、西側(左下)の山麓には後世、陣屋が作られた。当時も、山麓居館や家臣の屋敷、寺院、神社などがあり、街道沿いに町屋もあったと想定している。右は仲深山(なかのみやま)砦で、明知城と同様、畝状竪堀がある。手前の落合砦には井戸が残り、明智光秀の産湯を汲んだという伝承があるが、砦の実態は不明部分も多い。