
戦国時代の初期、太田道灌時代の江戸城を、西股氏の考証で想像復元した。当時の江戸城は現在の江戸城本丸にあたり、日比谷入江に面した舌状台地を利用したと推定される。その後、北条氏や徳川氏による改修が繰り返されており、具体的な姿は想像するしかないが、西股氏は戦国前期の上杉氏の築城パターンを江戸城の地形に落とし込んで、リアリティのある復元案を提示し、それをイラスト化した。

戦国時代の初期、太田道灌時代の江戸城を、西股氏の考証で想像復元した。当時の江戸城は現在の江戸城本丸にあたり、日比谷入江に面した舌状台地を利用したと推定される。その後、北条氏や徳川氏による改修が繰り返されており、具体的な姿は想像するしかないが、西股氏は戦国前期の上杉氏の築城パターンを江戸城の地形に落とし込んで、リアリティのある復元案を提示し、それをイラスト化した。

戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍を中心とする新政府軍が、鳥羽での戦いを制し、幕府軍が伏見に退却。これを追う新政府軍との戦いは夜戦となった。幕府方の本陣となった伏見奉行所が炎上し、ここでの戦いも新政府軍の勝利となった。

仙台湾の奥にひときわ入り込んだ松島湾を、ほぼ北から鳥瞰している。復元ではなく現状を描くイラストなので、イラストならではの価値が出るようにと考えた。空撮よりも島の形などが分かりやすく、美しさも出るように、配色に注力している。

保土ヶ谷宿は東海道の宿場で、現在の横浜市保土ヶ谷区にあった。町割り絵図をメイン資料として復元。本陣、助郷会所、高札場などがある江戸時代の宿場町の例として描いたもの。

江戸時代の典型的な歌舞伎小屋の内部を、複数のパーツに分解して描いた。歌舞伎小屋は、能舞台から発達し、江戸時代の間に独自のスタイルを作り上げた。回り舞台(盆)は、地下(奈落)で人が押して回す仕掛けで、花道のセリも人力のエレベーター。舞台の天井からは、雪などを振らせることができる。2階に桟敷を回した客席の大空間、楽屋(手前側)の様子など、歌舞伎小屋の面白さを見せるよう工夫した。

丸亀城天守を北西から見る。丸亀城は典型的な平山城で、特に北側では何十にも重なる石垣が圧巻。海に面した側が充実しているのは、高松城や今治城など、瀬戸内の海から見える城に共通の傾向。イラストの天守は現存するが、現在は天守のみが独立している。かつては多門櫓が左右に連結し、本丸の守りを固めていた。

江戸の上水道を模式化したイラスト。羽村の堰から始まる玉川上水の水が、裏長屋の共同井戸まで送られる過程を見せている。「すいどうばし」の語源になっている水道橋は、江戸城北側の外堀(神田川)を超えて、駿河台の武家屋敷に水を送った。分水された野火止用水が農業用水として利用され、新河岸川を「いろは樋」で渡る様子も描いている。

忠臣蔵の舞台となった吉良氏の屋敷。吉良氏は旗本だが、江戸屋敷は大名屋敷に匹敵する構えだった。討ち入りの前には、屋敷の建て替えが行われており、その平面図から復元。周囲の長屋には警護の兵が多数いたが、討ち入りの浪士たちが戸口をかすがいで固定したため出られなかったという。

鎌倉時代~室町時代の農村。左側は田植え風景で、右側は稲が実っている。水田は、まず谷戸の小川が利用されることが多い。左上に見せた平野部は灌漑用水を開削したり、大きい川に堤防を造って氾濫を防いだりする必要があるので、まだ未開発。田楽の様子や案山子、鳴子などは絵巻物を資料にして描いている。

平城京では中国の都城に倣って、東西に市の区画が作られたが、特に一般庶民も利用する東の市は活況を呈したとされる。奈良時代の市を描いた絵画資料はないので、平安、鎌倉時代の絵巻などを参考に想像した。
遠景に見えるのは東大寺。

「源氏物語」などを資料に、特に大規模な貴族の屋敷の典型的な形を示した。
南に面した寝殿を中心として、プライベート空間の「北の対」をはじめ、「西の対」「東の対」、さらに釣殿も2つ備えた左右対称のプランが典型的とされる。しかし、発掘調査その他の資料からの推定では、実際には釣殿が一つのものが多かったようだ。対の屋と釣り殿を繋ぐのが「中門廊」で、中門が屋敷内部への入り口となる。

鎌倉時代末期に、新田義貞らの反幕府軍と、北条氏を中心とする鎌倉幕府軍の間で行われた合戦。北関東から鎌倉を目指して進軍した反乱軍に、小手指ヶ原の合戦などで敗れ、退却した幕府軍は現在の府中市、分倍河原付近で反乱軍を迎え撃つ。当初は援軍を得た幕府軍が勝っていたが、その後反乱軍にも援軍が加わって、最終的には反乱軍が勝利。倒幕への流れを決定づけた。

平泉南西部の山あい。岩窟の前面に掛け造りの堂を設けた独特の寺院で、坂上田村麻呂が毘沙門天を祀ったのが始まりとされる。平安末期には、奥州藤原氏によって阿弥陀堂が整備されたと考えられ、その当時をイメージ復元した。
左の摩崖仏は現在も残されており、毘沙門堂も建て替えられたものを見ることができる。

大仙古墳をモデルにして、巨大な前方後円墳に棺が埋葬される儀式をイメージ復元した。上の館は三ツ寺遺跡などで発掘されている古墳時代の豪族館。大仙古墳(大仙稜)はかつて「仁徳天皇稜」と言われたが、被葬者は不明。右の2つの陪塚と、最も外側の堀も、イラスト化した埋葬時には存在しなかった可能性がある。

典型的な前方後円墳の構造を、模式的に描いた。墳丘は版築状に土を突き固めて盛り上げられ、表面には、丸みのある川原石を貼り付ける「葺石」が施されることが多い。石棺の形式にはいろいろな種類があり、時代によっても異なる。石棺が納められる場所も時代による変化があるが、巨大古墳の全盛期には後円部の頂上が多かったと考えられる。